平和
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「世界平和」はこの項目へ転送されています。世界の終わり (SEKAI NO OWARI) の楽曲については「EARTH (世界の終わりのアルバム)」をご覧ください。

「平和」のその他の用法については「平和 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

和平」とは異なります。
"Peace at the End of the Civil War" 議事堂建築監作。

平和(へいわ、: peace)は、戦争暴力で社会が乱れていない状態のこと。
概説

戦争は人類と同じくらい古いように見えるが、平和は現代の発明である[1]

国際関係において「平和」は戦争が発生していない状態を意味し、元来、戦争は宣戦布告に始まり平和(講和)条約をもって終了し、これにより平和が到来するとされてきた[2]国際連合憲章の下では、一般に、自衛権や安全保障理事会の決定に基づくもの以外の武力行使は禁止されており、伝統的な意味での戦争は認められなくなっている[3](戦争の違法化)。しかし、武力紛争は現実には発生しており[3]、特に第二次世界大戦後の武力衝突では宣戦布告もなく休戦協定も頻繁に破られるなど旧来の戦争の定義をあてはめることが困難になり戦争と平和の時期的な区別も曖昧になっているという指摘がある[2]。また、従来、国際平和秩序はあくまでも国家間での平和の維持を共通目標とするものにとどまり、各国の国内の人民の安全まで保障しようとするものではなかったため、各国の国内での人道的危機が国際社会から見放されてきたのではないかという問題も指摘されており、人間の安全保障と平和の両立が課題となっている[4]
国家間の平和から人間の安全保障への展開

上のように人間の安全保障と平和の両立が新たな課題となっている[4]。ルドルフ・ジョセフ・ランメル(英語版)によって20世紀に発生した政府権力による民衆殺戮の犠牲者数は戦争犠牲者数を上回るという研究が出されるなど、従来の平和創造の歴史は国家間の平和にとどまり必ずしも人々の安全確保のためではなかったことが問題視されるなど伝統的な平和観の変容が指摘されている[5]。国民統合が進まず政府の統治の正当性が確立されていない多民族国家発展途上国では、外部脅威に加えて反体制派(運動)や分離主義(運動)といった内部脅威が存在し、内部脅威への強権的な対応の帰結として戦争の犠牲者数を上回るほどの多くの命が政府権力の手によって奪われるという人道的危機を発生させた[6]。その背景には、武力行使が禁止され侵略戦争は減少したが、国際政治での勢力拡張の様式が旧来の侵略や領土併合ではなく同盟国や友好国の数を増やすことに変化した結果、同盟国や友好国の内部で発生する非人道的行為が看過されることになったこと[7]、核時代の黎明期に「平和共存」平和観が支配的になり、人権侵害を止めるための外交的圧力がかえって国際関係に緊張をもたらし核戦争にまで発展する恐れがあることから敵対する陣営内の人権問題への干渉は互いに控えねばならず、人権の抑圧等が看過せざるを得ない状況が出現したことが挙げられている[7]

2001年1月に緒方貞子国連難民高等弁務官(当時)とアマルティア・セン・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長(当時)を共同議長とする「人間の安全保障委員会」が創設され、2003年2月の最終報告書では「安全保障」の理論的枠組みを再考し、安全保障の焦点を国家のみを対象とするものから人々を含むものへ拡大していく必要があり、人々の安全を確保するには包括的かつ統合された取り組みが必要であるとしている[8]。グローバル化や相互依存の深まりによって、戦争に限らず、貧困、環境破壊,自然災害、感染症、テロ、突然の経済・金融危機といった人々の生命・生活に深刻な影響を及ぼす国際課題に対処するためには、従来の国家を中心に据えたアプローチだけでは不十分になってきているという背景もある[8]

一方、1990年代のバルカン半島情勢への対処以降、人道目的のための武力行使(人道的介入)が増加している。これは国家中心的で伝統的な主権の概念よりも人権と正義に関する国連憲章条項が重視されるようになったことと関係があると広く考えられているが、人道目的のための武力の行使や武力の行使の示唆に対しては異論もある[9]
平和論の類型

今日までの平和論は軍縮・軍備管理による平和、戦争違法化による平和、経済国際主義による平和、相互信頼による平和、集団安全保障による平和などに分類される[10]。このほかに20世紀末に民主主義による平和論が考えられるようになった[11]
勢力均衡

19世紀のヨーロッパにおいては、勢力均衡が大局的な平和に寄与すると考えられていた。これは当時のヨーロッパの大国がそれなりに釣り合いの取れた国力を有したことと、最有力国であるイギリスヨーロッパ大陸の覇権争いから距離を置き、バランサーとして振る舞うことで成立した。ただしこれで維持される平和は大国間のものにすぎず、ヨーロッパ外の勢力は次々と植民地化されていった。また19世紀後半に入ると勢力の均衡が崩れ、軍拡競争の果てに第一次世界大戦の勃発によって勢力均衡方式は破綻した[12]。ただしこの理論は第二次世界大戦後、アメリカ合衆国ソヴィエト連邦による冷戦の中で復活し、ハンス・モーゲンソウらの唱える現実主義は勢力均衡の重要性を論じた[13]。やがてケネス・ウォルツネオリアリズムを唱え、従来の勢力均衡理論に変更を加えたものの本質的なものではなく、2大勢力の間の勢力均衡こそが最も安定すると論じた[14]。ウォルツの理論は勢力均衡論に大きな影響を与え、突出した大国が覇権を握る状況が最も国際情勢が安定すると唱えるロバート・ギルピン覇権安定論[15]、均衡の対象は強国ではなく最も脅威とみなされる国家となると唱えるスティーヴン・ウォルト脅威均衡など[16]、さまざまな理論へと発展していった。
軍縮及び軍備管理

軍縮・軍備管理による平和としては、国際連盟規約ワシントン海軍軍縮条約弾道弾迎撃ミサイル制限条約戦略兵器削減条約核拡散防止条約などがある[10]。こうした軍縮を行う国際機関としては、ジュネーブ軍縮会議が前身も含めれば1960年から活動を行っているものの、21世紀に入ってからの活動は停滞が続いている[17]

第一次世界大戦後、国際連盟規約で軍備縮小が定められ、1922年のワシントン海軍軍縮条約では列強各国の海軍艦船の制限が取り決められたものの、この割り当てに対して日本などでは強い不満が起きることとなり、のちに日本は1930年のロンドン海軍軍縮会議からも1936年に脱退し、1935年の第二次ロンドン海軍軍縮会議などの努力もあったものの、結局軍縮は失敗して第二次世界大戦へとつながっていくことになった[18]

第二次世界大戦後の軍備管理条約は、まず世界中に拡散してしまった核兵器の軍縮から始まった。1963年の部分的核実験禁止条約では地下核実験を除く核実験が禁止され、1970年に発行した核拡散防止条約ではアメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国の5ヶ国以外の核保有を認めないことで核保有国の拡大にとりあえずの歯止めをかけた[19]。核実験に関しては、1996年に地下核実験も含む全ての核実験の禁止を定めた包括的核実験禁止条約が採択されたものの、一部国家において批准がなされておらず、条約は未発効のままとなっている[20]

また、1967年にラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)が調印された[21]のを皮切りに非核兵器地帯の設定が世界各地で進められ、1985年の南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)[22]、1995年の東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約)[23]、1996年のアフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)[24]、そして2006年の中央アジア非核兵器地帯条約(セメイ条約)[25]と、相次いで非核兵器地帯が設定された。


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