平和記念公園
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「平和記念公園」はこの項目へ転送されています。沖縄県にある平和祈念公園については「沖縄戦跡国定公園」をご覧ください。

広島平和記念公園
Hiroshima Peace Memorial Park

分類平和公園
所在地 日本広島県広島市中区中島町
座標北緯34度23分33.8秒 東経132度27分8.5秒 / 北緯34.392722度 東経132.452361度 / 34.392722; 132.452361座標: 北緯34度23分33.8秒 東経132度27分8.5秒 / 北緯34.392722度 東経132.452361度 / 34.392722; 132.452361
面積約122,100m2
開園1954年(昭和29年)4月1日
設計者造園設計を広島市[1]
建築家・技術者丹下健三浅田孝大谷幸夫・木村徳國/イサム・ノグチ
運営者広島市
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オープンストリートマップに広島平和記念公園の地図があります。

広島平和記念公園(ひろしまへいわきねんこうえん、英語: Hiroshima Peace Memorial Park)は、広島県広島市中区中島町にある無料の市民公園。平和記念公園(: Peace Memorial Park)もしくは単に平和公園(: Peace Park)
目次

1 概要

2 公園内・周辺の施設

2.1 建物

2.2 慰霊碑・記念碑等

2.2.1 原爆犠牲者全般の慰霊碑・慰霊施設

2.2.2 地区住民関係の慰霊碑

2.2.3 学校・義勇隊関係の慰霊碑

2.2.4 会社・団体・公共機関関係の慰霊碑

2.2.5 個人に関わる記念碑・慰霊碑

2.2.6 その他記念碑等


2.3 鐘・木・時計等


3 遍歴

4 平和公園で起こった事件

5 海外の見方

5.1 中国


6 交通

6.1 JR広島駅から

6.2 JR横川駅から

6.3 JR西広島駅から

6.4 広島港から

6.5 高速バス・郊外バス

6.6 自家用車で行く場合

6.7 その他交通手段


7 その他

8 関連項目

9 脚注

10 参考文献

11 外部リンク

概要 慰霊碑より原爆ドームを臨む。

1945年8月6日アメリカ軍広島市原子爆弾を投下した。

その後、1946年11月1日に、爆心地に近い中島町内10.72haが「中島公園」として都市計画公園に指定された[2]

1949年の11月1日には国会で可決された特別立法「広島平和記念都市建設法」が制定された。世界に向けて人類の平和を願い訴えることと、過去の過ちを繰り返さないことを目的に、同年、広島平和記念都市建設法を受けた国家の記念碑的コンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」を広島市主催で実施。約140件の応募案のなかから1等に岸田日出刀審査員が推す丹下健三以下3名(浅田孝大谷幸夫・木村徳國)の案が選ばれた。[3][4]

丹下らの1等案は、市の中央を東西に走る予定の100メートル道路に垂直に交わるかたちで、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で結ぶというデザイン案が評価された。丹下は、日本の古社寺の伝統に由来する、「個個の建築よりも、その配置がつくりだす環境の秩序」を重視したという[5]

2等、3等他の案は道路の存在意識や川を挟んだ敷地の先に臨む原爆ドームを視野に入れるなどはせず、このため建築のスケールを広範な都市計画の視点から点から捉え返そうとする点で丹下らの案の特異性が浮かび上がった。また公園計画案での道路割がつづみ形(型)のデザインを呈しているが、丹下はこのつづみ形を、戦時中実施され丹下も参加したアンビルド・プロジェクトのコンペティション「大東亜建設記念造営計画」でも使って割とうまくいくことを掴んでいたことで採用している[6]。このつづみ形のアイデアは丹下が広島高校時代に出会ったル・コルビュジエの「ソビエトパレス」建築コンペティション応募作品にあった[7]

そのうち、広島平和記念資料館原爆死没者慰霊碑の設計や、原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・資料館を結ぶ南北軸、資料館を中心とする3棟の建物による東西軸は実現した。当初は現在の広島市中央公園や基町中層アパート群・市営基町高層アパートの周辺も、平和公園として構想されていた[8]が実現しなかった[9]。また、平和大通りについても構想に含まれていた[10]

丹下らのこの公園計画案は批判の声も多く、特に天皇制および大東亜共栄圏のイデオロギーを帯びた体制を支持する「大東亜建設記念造営計画」で名を馳せたため、丹下の転向が指摘されるが、この公園案の場合は戦後民主主義の反戦思想へ転換したといえど、都市や国土計画への志向が、戦前の上記コンペから戦後を通して一貫して連続しているとされる[11]。他方、この計画案がもつ都市性については国内ではむしろ逸脱として批判にさらされている。しかしその後広島平和記念公園は、戦後の日本がどのような方向に向かうのか、世界に向けてアピールした記念碑的なものとなった。[12]

「広島平和都市建設構想案」が掲載された『国際建築』(1950年10月号)は英文併記で、このため海外でも注目され、とりわけアメリカの建築家の注目を集めた。丹下はこれをきっかけとして1951年に「都市のコア」をテーマとした近代建築国際会議(CIAM)の第8回会議で広島平和記念公園(広島計画)の発表招聘を受け、会議に出席。コルビュジエやヴァルター・グロピウスら国際的建築家と相対することになる。

公園南側の平和大橋西平和大橋は、アメリカ人彫刻家であるイサム・ノグチの設計による[13]。公園の建設にあたっては、敷地内の多くのバラックを撤去することとなった。また、敷地内を走っていた古くからの繁華街の道(中島本通 / かつての西国街道國道四号)は残されることになった[14]


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