平公 姫彪
晋
公(周制における爵位は侯)
王朝晋
在位期間紀元前558年 - 紀元前532年
都城絳
姓・諱姫彪
諡号平公(荘平公[1])
没年紀元前532年
父悼公
后妃少姜(少斉)
平公(へいこう、? - 紀元前532年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前557年 - 紀元前532年)。姓は姫。諱は彪。幼くして君主となったが、羊舌?(叔向)などの賢臣の補佐を得て晋の覇権を維持し、大過なくこの世を去った。
晋の悼公の子として生まれた[2]。紀元前558年11月、悼公が死去すると、平公が後を嗣いで晋公として即位した[3]。紀元前557年、荀偃(中行偃)を将として晋軍を楚に侵攻させ、湛阪の戦い
で勝利した[4]。紀元前555年、平公は斉と争い霊公を破って臨?まで攻め込んだ[5]。翌紀元前554年、帰国の途上で正卿の荀偃が死去した[6]。
欒盈(欒懐子)を追放して六卿の力を弱めようとしたが、欒盈はのちに亡命先から帰国して叛乱を起こした。欒盈の軍は瞬く間に首都・絳に侵入し、平公は自殺しようとしたが士鞅(范献子)にとめられた。のちに叛乱軍は正卿の士?(范宣子、士鞅の父)によって鎮圧され、欒氏の宗族は滅ぼされた。
紀元前548年、士?の死後、趙武が正卿になった[7]。趙武は賢臣・羊舌?の献言をよく聞き入れ、徳義をもって国を治めたので晋は栄えた。次の正卿の韓起の代になってもそれは同じであった。
紀元前546年、宋において「弭兵の会(中国語版)」を主催し、初めて南方の大国・楚との和議がなった[8]あと、紀元前544年、呉から聖人として名高い季札が晋にやってきた[2]。季札は「晋の政権はこの三家(趙・魏・韓)に帰するでしょう」と予言した。
羊舌?が秦の使者[9]の接待役を命じる際に、子朱と争った。平公はこれを聞いて「晋は盛んになるだろうか。臣下の争うところは重大である」と(それだけ国事に真剣になってくれているのだ、と判断して)言うと、側に控えていた師曠は「公室はおそらく衰微するでしょう。臣下が徳ではなく力で競争しています」と言った[10]。
紀元前532年7月戊子、平公は死去し[11]、子の昭公が後を嗣いだ[2]。
脚注^ 『清華簡』「繋年」17章、18章
^ a b c 『史記』晋世家
^ 『春秋左氏伝』襄公15年
^ 『春秋左氏伝』襄公16年
^ 『春秋左氏伝』襄公18年
^ 『春秋左氏伝』襄公19年
^ 『春秋左氏伝』襄公25年
^ 『春秋左氏伝』襄公27年
^ 『史記』晋世家には紀元前539年に斉の晏嬰が来た際、これと似た会話がなされている。
^ 『春秋左氏伝』昭公8年(紀元前534年)には、平公が「石がものを言ったのはなぜか?」と問う同様の会話がある。
^ 『春秋左氏伝』昭公10年
参考文献
『春秋左氏伝』
『史記』
表
話
編
歴
晋の君主(前558年-前532年)
唐叔虞
晋侯燮
武侯
成侯
厲侯
靖侯前858-前841
釐侯前840-前823
献侯前822-前812
穆侯前811-前785
殤叔前784-前781
文侯前780-前746
成師(桓叔)の曲沃就封で、晋は翼の宗家と曲沃の分家に分裂
翼宗家
昭侯前745-前739
孝侯前739-前724
鄂侯前723-前718
哀侯前717-前710
小子侯前709-前706
晋侯緡前706-前679断絶
曲沃分家
桓叔前745-前731
荘伯前731-前716
武公前716-前678
曲沃の武公が翼の晋侯緡を滅ぼし、晋が再統一される
武公前678-前677
献公前676-前651
奚斉前651
悼子前651
恵公前650-前637
懐公前637-前636
文公前636-前628
襄公前627-前621
霊公前620-前607
成公前606-前600
景公前599-前581
厲公前580-前573
悼公前572-前558
平公前557-前532
昭公前531-前526
頃公前525-前512
定公前511-前475
出公前474-前457
哀公前456-前438
幽公前437-前420
烈公前419-前393
孝公前392-前378
静公前377-前376
更新日時:2018年9月2日(日)14:59
取得日時:2019/01/11 16:37