平公 姜?
斉
公(周制における爵位は侯)
王朝斉
在位期間前481年 - 前456年
姓・諱姜?
諡号平公
没年前456年
父悼公
平公(へいこう、? - 紀元前456年)は、春秋時代の斉の君主。姓は姜、諱は?[1]。 斉の悼公の子として生まれた。紀元前481年、兄の簡公が田恒(田成子)に殺害されると、平公が斉の国君として擁立された[2]。 紀元前480年、高無丕が燕に亡命した[3]。この年の冬、魯と講和し、成を魯に返還した[4]。紀元前478年、晋の趙鞅が軍を率いて衛を包囲したため、斉の国観と陳?が衛を救援した。平公は魯の哀公と蒙で会合し、盟を交わした[5]。紀元前475年、平公は晋が鄭を攻撃したことを非難し、諸侯を廩丘に召集して晋を討とうとしたが、鄭が辞退したために出兵を取りやめた[6]。紀元前474年、平公は魯の哀公や?の閔公
生涯
紀元前472年、晋の智瑶が斉を攻撃し、斉の高無丕がこれを迎え撃った。斉軍は犁丘で戦って敗れた[8]。紀元前471年、晋と魯の連合軍が斉を攻撃し、廩丘を奪って凱旋した[9]。紀元前468年、晋の智瑶が鄭を攻撃し、鄭の駟弘が斉に救援を求めた。平公は田恒を派遣して鄭を救援した[10]。
ときに平公の臣下である田恒は西方の晋の韓氏・魏氏・趙氏と結び、南方の呉や越との通交を開いて斉の対外関係を安定させる一方、斉の公族一門や鮑氏・晏氏や?止
(中国語版)の一族を殺して専横した。また田恒は安平より東は瑯?にいたるまでを自らの封邑として、平公の食邑より広大な領地を経営した[11]。紀元前456年、平公は死去し、子の宣公が斉公として即位した[2]。
脚注^ 『史記』斉太公世家による。『史記索隠』所引『世本』および?周によると、諱は敬。
^ a b 『史記』斉太公世家
^ 『春秋』哀公15年
^ 『春秋左氏伝』哀公15年
^ 『春秋左氏伝』哀公17年
^ 『春秋左氏伝』哀公20年
^ 『春秋左氏伝』哀公21年
^ 『春秋左氏伝』哀公23年
^ 『春秋左氏伝』哀公24年
^ 『春秋左氏伝』哀公27年
^ 『史記』田敬仲完世家
表
話
編
歴
姜斉の公(前481年 - 前456年)
呂尚(太公望)前1021?-前1000
丁公前999-?
乙公
癸公
哀公?-前863
胡公前862-前860
献公前859-前851
武公前850-前825
詞前824-前816
文公前815-前804
成公前803-前795
荘公贖前794-前731
釐公前730-前698
襄公前697-前686
公孫無知前685
桓公前685-前643
斉侯無詭前643
孝公前642-前633
昭公前632-前613
斉君舎前613
懿公前612-前609
恵公前608-前599
頃公前599-前582
霊公前581-前554
荘公光前553-前548
景公前547-前490
晏孺子荼前489
悼公前488-前485
簡公前484-前481
平公前480-前456
宣公前455-前405
康公前404-前379
Category:斉の君主