平公_(斉)
[Wikipedia|▼Menu]

平公 姜?

公(周制における爵位は侯)
王朝斉
在位期間
前481年 - 前456年
姓・諱姜?
諡号平公
没年前456年
悼公

平公(へいこう、? - 紀元前456年)は、春秋時代の君主。姓は姜、諱は?[1]
生涯

斉の悼公の子として生まれた。紀元前481年、兄の簡公田恒(田成子)に殺害されると、平公が斉の国君として擁立された[2]

紀元前480年、高無丕がに亡命した[3]。この年の冬、と講和し、成を魯に返還した[4]紀元前478年趙鞅が軍を率いてを包囲したため、斉の国観と陳?が衛を救援した。平公は魯の哀公と蒙で会合し、盟を交わした[5]紀元前475年、平公は晋がを攻撃したことを非難し、諸侯を廩丘に召集して晋を討とうとしたが、鄭が辞退したために出兵を取りやめた[6]紀元前474年、平公は魯の哀公や?の閔公と顧で盟を交わした[7]

紀元前472年、晋の智瑶が斉を攻撃し、斉の高無丕がこれを迎え撃った。斉軍は犁丘で戦って敗れた[8]紀元前471年、晋と魯の連合軍が斉を攻撃し、廩丘を奪って凱旋した[9]紀元前468年、晋の智瑶が鄭を攻撃し、鄭の駟弘が斉に救援を求めた。平公は田恒を派遣して鄭を救援した[10]

ときに平公の臣下である田恒は西方の晋の韓氏魏氏趙氏と結び、南方のとの通交を開いて斉の対外関係を安定させる一方、斉の公族一門や鮑氏・晏氏や?止(中国語版)の一族を殺して専横した。また田恒は安平より東は瑯?にいたるまでを自らの封邑として、平公の食邑より広大な領地を経営した[11]

紀元前456年、平公は死去し、子の宣公が斉公として即位した[2]
脚注^史記』斉太公世家による。『史記索隠』所引『世本』および?周によると、諱は敬。
^ a b 『史記』斉太公世家
^春秋』哀公15年
^春秋左氏伝』哀公15年
^春秋左氏伝』哀公17年
^春秋左氏伝』哀公20年
^春秋左氏伝』哀公21年
^春秋左氏伝』哀公23年
^春秋左氏伝』哀公24年
^春秋左氏伝』哀公27年
^ 『史記』田敬仲完世家










姜斉(前481年 - 前456年)


呂尚(太公望)前1021?-前1000

丁公前999-?

乙公

癸公

哀公?-前863

胡公前862-前860

献公前859-前851

武公前850-前825

前824-前816

文公前815-前804

成公前803-前795

荘公贖前794-前731

釐公前730-前698

襄公前697-前686

公孫無知前685

桓公前685-前643

斉侯無詭前643

孝公前642-前633

昭公前632-前613

斉君舎前613

懿公前612-前609

恵公前608-前599

頃公前599-前582

霊公前581-前554

荘公光前553-前548

景公前547-前490

晏孺子荼前489

悼公前488-前485

簡公前484-前481

平公前480-前456

宣公前455-前405

康公前404-前379

Category:斉の君主


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9829 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef