平井 隆太郎(ひらい りゅうたろう、1921年2月15日 - 2015年12月9日)は日本の心理学者、新聞学者。立教大学名誉教授。 大阪府出身。平井太郎(江戸川乱歩)の一人息子として大阪府北河内郡守口町(現在の守口市)に生まれる。東京府立第五中学校から1年浪人して第一高等学校に入学。このとき1級下に藤村正太がいた。1942年、東京帝国大学文学部心理学科に入学。1943年11月、同大学を仮卒業し(正式卒業は1944年9月)、1943年12月に学徒出陣で徴兵されて大日本帝国海軍に入隊。千葉県の館山海軍砲術学校に配属され、高射砲を専修。予備学生として横須賀市武山の海兵団で過ごした後、海軍少尉として茨城県土浦市の航空隊に赴任。 中尉として復員後、東京大学法学部政治学科に学士入学し1949年3月に卒業。この間、土浦で知り合った女性と1948年に結婚。1949年5月から東京大学新聞研究所に助手として勤務。1952年から立教大学文学部非常勤講師。1953年、立教大学文学部社会科助教授。1960年、立教大学社会学部教授。1964年10月から1965年4月までベルリンに研究出張。1966年、当時立教大学に在学中だった戸川安宣の要請により、立教大学ミステリクラブの顧問に就任。1968年4月、立教大学社会学部の博士課程主任となる。同年12月、第5代社会学部長に就任(1976年3月まで務める)。以後、立教学院理事、立教大学総長事務取扱(1970年4月から1年間)などを歴任。突然の執行部退陣の後を受けて多数の役職を兼務したため、学内で「怪人二十面相」と揶揄された[1]。1986年から立教大学名誉教授。 遺族として乱歩の遺品や蔵書・資料類の保存に尽力。乱歩関連書籍の監修者に名を連ねる。2002年には東京都豊島区西池袋の旧乱歩邸を立教大学に移管した。日本推理作家協会名誉会員。 長男の平井憲太郎
目次
1 経歴
2 主要論文
3 著書
4 訳書
5 監修
6 脚注
経歴
2015年12月9日、肺炎のため死去[2]。94歳没。
主要論文
「かわら版の一類型とその背景」(『新聞研究』115号、1961年)
「日本におけるテレビ普及の特質」(共同研究、『放送学研究』1964年 - 1965年)
「瓦版の謎、瓦版のゆくえ」(西巻興三郎編『太陽コレクション かわら版・新聞、江戸・明治三百事件』平凡社、1978年)
「噂の病態」(『月刊百科』232号、1982年)