幕末の砲艦外交
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この項では、幕末砲艦外交(ばくまつのほうかんがいこう)について概説する。目次

1 アダム・ラクスマンの来航と通商の要求(1792年)

2 ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)

3 ジェームズ・ビドルの来航と開国の要求(1846年)

4 ジェームス・グリンの来航と米国捕鯨船員の解放(1849年)

5 マシュー・ペリーの来航と日米和親条約

5.1 第一次来航(1853年)

5.2 第二次来航(1854年)


6 プチャーチンの来航と日露和親条約(1853年)

7 スターリングの来航と日英和親条約(1854年)

8 ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)

9 ロシア軍艦対馬占領事件(1861年)

10 薩英戦争(1863年)

11 下関戦争

11.1 米国およびフランスの報復攻撃(1863年)

11.2 四国艦隊による下関占領(1864年)


12 兵庫早期開港要求(1865年)

13 兵庫開港(1867-68年)

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

アダム・ラクスマンの来航と通商の要求(1792年) ラクスマンのエカチェリーナ号(北槎聞略より 国立公文書館)

ロシアは当初日本との通商を行うに当たり、パベル・レベデフ=ラストチキンのような商人の活動に期待していた。しかし、陸軍の軍人であったアダム・ラクスマンは、大黒屋光太夫ら漂流者の日本への送還すると同時に日本との通商を行うことを計画し、エカチェリーナ2世の命を受けることに成功した。通商要望の信書はエカチェリーナ2世ではなくシベリア総督の名前で出されたが、ラクスマンはロシア最初の遣日使節となった。1792年9月、帆走ブリッグエカチェリーナ号を率いて根室国に到着した。ラクスマンは江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなうことを希望したが、老中松平定信らは、ラクスマンを箱館に廻航させて漂流民の身柄を受け取ること、シベリア総督の信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示した。この結果、ラクスマンらは1793年6月、箱館に入港して上陸し、松前に赴いて光太夫らを日本側に引き渡した。ラクスマンは長崎への入港許可証(信牌)を交付されたが、長崎へは向かわずに帰国した。

艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲
エカチェリーナ帆走ブリッグ不明積載量150トン程度(bmトン)42無不明

ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年) レザノフのナジェージダ号(視聴草より 国立公文書館)

ニコライ・レザノフは、露米会社経営者であったが、その発展に日本との交易が重要と考えており、使節の派遣を宮廷に働きかけた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、ラクスマンが入手した信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。


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