幕府陸軍
軍旗には「御国総標」たる日の丸が使用された。
創設1860年(万延1年)
解散1869年(明治2年)
派生組織大日本帝国陸軍
本部江戸
指揮官
征夷大将軍徳川家茂
徳川慶喜
陸軍総裁蜂須賀斉裕
松平乗謨
勝海舟
総人員
兵役適齢17歳から45歳
徴兵制度兵賦令
関連項目
歴史天狗党の乱
長州征討
戊辰戦争
テンプレートを表示
幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1860年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。幕府陸軍に対して海上任務を想定した幕府海軍も存在しており、これらをまとめて幕府軍と呼称する場合が多い。
沿革
前史フランスの軍服を身に着けた徳川慶喜、1860年頃
江戸幕府は、直轄の軍事力としては、旗本や御家人からなる戦国時代以来の体制を続けてきた。これらの旗本などにより小姓組・大番などの伝統的な軍事組織を構成していたが、長期の平和の中で貴族化し、形骸化が進んでいた。アヘン戦争の情報などから次第に危機感を覚えた幕府は、高島秋帆や江川英龍、下曽根信敦らを砲術師範などに登用して西洋式軍備の研究を開始した。
黒船来航後の安政元年(1854年)には、老中の阿部正弘による安政の改革で軍制改正掛が置かれた。軍制改正掛の検討で、旗本・御家人の子弟を対象とした武芸訓練機関である講武場(後に講武所)の設置が決まった。安政3年(1856年)4月に開場された講武所では、古来の剣術や日本式鉄砲術・大筒術などだけでなく、西洋式の砲術や戦術学の研究も行われた。また講武所には、教導部隊ともいうべき一定の実戦力も期待され、後に奥詰
と呼ばれる将軍の警護要員も整備された。さらに講武所の設置と前後して、安政2年(1855年)9月には徒組、安政3年(1856年)1月には小十人組に対して砲術師範の江川英敏への入門が義務付けされ、洋式銃砲の訓練が始められた。この訓練は、講武所設置後には、その中の砲術習練所へと移って続けられた。安政5年(1858年)には、深川越中島に銃隊調練所が建設された。
しかし、阿部の死後に井伊直弼が大老に就任すると、西洋式軍備の導入は停滞してしまった。
文久の軍制改革“フランス式日本軍歩兵部隊の訓練風景”と題された写真。幕府歩兵の調練風景(慶応元年、大坂城内)
桜田門外の変での井伊の横死後、文久元年(1861年)に設置任命された軍制取調掛の構想のもと、文久2年(1860年)に本格的な西洋式軍隊である「陸軍」が創設された(文久の改革の一環)。陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行が置かれ、歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制が採用されたが、あくまで従来の軍制と並立する組織であった。
歩兵は、横隊などを組む戦列歩兵に該当する「歩兵」と、軽歩兵に該当する「撒兵(さっぺい)[1]」に分類された。うち歩兵隊は、旗本から禄高に応じて供出させた兵賦(へいふ)と称する人員から構成され、同年12月には、幕府は大量に必要になる兵員確保の為、旗本に対して兵賦令を布告した。兵賦令の内容は、500石以下の旗本は金納、500石以上の旗本に対して[2]、課された軍役の人員を半数とする代わりに、兵賦を知行地から供出するものとされ[3]、兵賦は知行500石で1人、1000石で3人、3000石で10人の人員の供出を割り当てられたが、当面はこの半数で良いとされた。
兵賦の年齢は17歳から45歳までとされ、年季は5年、身分は最下層ながら、武士に準ずるものとされ、脇差の帯刀を許された。なお入営後の功績次第では正式に幕臣に登用されるものとされた[4]。歩兵隊の兵賦は江戸城西の丸下、大手前、小川町、三番町に設けられた屯所に入営し、装備、衣服、糧食などは幕府が負担し、給与だけは各旗本が個別に支給する方式が取られ、給金は年10両が限度とされたが、人件費高騰や通貨膨張などの為、実際は年15両もしくはそれ以上の給金が支払われた[5][6]。その後の元治元年(1864年)7月までに関東諸国から、10000人ほどが徴集された[7]。
他方の撒兵隊は御目見以下の小普請組などの御家人から構成され、慶応2年(1866年)までは御持小筒組と称した[8]。騎兵は与力や旗本である御目見以上の小普請組から、砲兵は同心から編成された。各部隊の士官は旗本やその子弟をあてることとした。
この取組みにより編成された陸軍は、天狗党の乱や長州征討へ実戦投入された。天狗党の乱では、実戦経験の不足の為に奇襲攻撃を受けたりして翻弄された。第二次長州征討では芸州口と小倉口に配置され、芸州口の部隊は善戦し長州勢を押し返したものの、小倉口の部隊は小倉藩軍の苦戦を拱手傍観するのみで為すところがなく、戦力を発揮することはなかった。
慶応の軍制改革1866年、日本への出発前のフランス軍事顧問団。中央が団長のシャルル・シャノワーヌ、 前列右から2番目がジュール・ブリュネ。西洋式軍装に身を包んだ幕府軍歩兵
第二次長州征討の敗戦後、慶応2年(1866年)8月以降、15代将軍徳川慶喜によるいわゆる「慶応の改革」の下で再び大規模な軍制改革が行われた。幕府中枢への総裁制度導入により陸軍局が設置され、従来の陸軍組織の上に乗る形で老中格の陸軍総裁が置かれた。そして、幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、大番などの旧来型組織は解体ないし縮小されて、余剰人員のうち優秀な者が親衛隊的な性格の奥詰銃隊や遊撃隊(奥詰の後身)などとして陸軍へと編入された。講武所も陸軍に編入され、研究機関である陸軍所となった。すでに一定の洋式化が進んでいた八王子千人同心も編入され、八王子千人隊と改称されている。組織の拡大にあわせて、陸軍奉行の若年寄格への昇格、歩兵奉行並や撒兵奉行並の設置など指揮系統も整備された。
築造兵と称した工兵隊、天領の農民で組織した御料兵の編成もされた。また、シャルル・シャノワーヌ大尉らフランス軍事顧問団による直接指導も導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成されることとなった。