幕下
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "幕下" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年6月)

番付の地位


横綱

大関

関脇

小結

前頭(平幕)

十両





幕下

三段目

序二段

序ノ口

番付外  

幕下(まくした)は、大相撲番付上の階級。

6つある番付上の階級(幕内十両・幕下・三段目序二段序ノ口)の内、上から3番目の階級である。
呼称・由来

呼称の由来は、十両のなかった時代(江戸時代から明治初期、1887年まで)には幕内のすぐ下の階級であったため。番付では上から二段目に記載される[注釈 1] ため、正式名称は「幕下二段目」。現在では十両創設以降の「十両」「幕下」と区別して十両創設以前の時代の幕下を「二段目」と呼ぶことがある。
特徴詳細は「関取」および「力士養成員」を参照

関取(十両以上)を窺う地位であり、十両への昇進を目指す者と十両下位の力士との間で、最も競争の厳しい地位でもある。力士として一人前に扱われる関取と、力士養成員扱いの幕下以下とでは、その待遇に雲泥の差があるため、俗に「十両と幕下は天国と地獄」とまで言われる。そのため関取で長く活躍してきた力士は、幕下に陥落したのを潮に引退することも多い。
待遇
These tables are an excerpt from 大相撲 § 力士の待遇.

地位幕内(横綱 - 前頭)十両幕下三段目序二段序ノ口
大銀杏丁髷
(十両との対戦時および弓取式、巡業中の初切出演、床山の練習台、引退時の断髪式の際は大銀杏容認)
服紋付羽織袴着物・羽織(外套・襟巻も着用可)着物・羽織着物(浴衣もしくはウール)
博多帯ベンベルグ
番傘蛇の目傘洋傘
履物足袋雪駄(畳敷き)足袋に雪駄(エナメル製)素足に雪駄(エナメル製)素足に下駄
稽古廻し白色・木綿黒色・木綿
取り廻し博多織繻子(色は事実上自由)黒色・木綿
下がり取り廻しの共布紐
足袋の色白黒
控えの敷物私物の座布団(色・デザインは自由)共用の座布団(紫一色)畳に直座(幕下上位五番および十両との対戦時は十両と同じ座布団)
月ごとの収入月額給与-
場所ごとの収入力士褒賞金場所手当・奨励金

幕下の地位から博多帯(博多織の帯)と冬場のコートを着用でき、番傘蛇の目傘を差すことも許されるようになる。中でも将来有望と見込まれた力士は稽古に専念させるためちゃんこ番などの雑用を免除する部屋もある。

上位15枚目以内は成績次第で十両昇進の可能性が見えて来ることから俗に幕下上位と呼ばれ、また本場所の場内で入場者に配布される当日の取組表の裏に印刷される星取表に掲載される。21世紀以降は昇進競争が激化し、幕下上位に在位する力士の多くが関取経験者という事態がしばしばみられる[注釈 2]
取組

本場所では通常15日間で7番の相撲を取る[注釈 3]。ただし、全段での休場力士の兼ね合いなどで、(主に5敗以上の力士に)八番相撲が組まれることもある。

5戦全勝力士の六番相撲は十一日目に、6戦全勝力士の七番相撲(全員敗れて全勝力士がいなくなる可能性がある場合は5勝1敗の力士も)は十三日目に固定されている。

十両土俵入りから幕下最後の取組までの5番は特に幕下上位五番(後述)と呼ばれる。

なお第二次世界大戦後、幕下の1場所あたりの取組数は、関取が13日→10日→11日などと変遷するのに合わせ、7番→5番→6番などと変遷していたが、年2場所制から年3場所制に変更となった昭和24(1949)年春場所(3月)に、関取の13日間に対し幕下以下も12番取るように変更され、続く夏場所(5月)には十両以上が15日間に変更されたのに合わせて幕下以下も15日15番制[1]に変更、年4場所制に変更された昭和28(1953)年初場所(1月)まで続いた後、同年春場所(3月)から幕下は15日8番制に変更された[2]

通常塩撒きは十両以上でないと許されないが、極稀に場所の進行が早過ぎる時に時間調整の一環として幕下の取り組みでも塩撒きが行われる[3]
定員

定員は東西60枚の計120人である(1967年5月場所以降)。ただし幕下付出の力士はこれに含めない。

定員が東西60枚120人となる以前については、人数は毎場所変動していたが、戦後最少人数は1949年1月場所における51人(枚数は26枚、26枚目は東のみ)、史上最多人数は1966年1月場所における203人(枚数は101枚、他に幕下格の番付外1人)となっている。

十両創設以前の時代の幕下(二段目)で見ると、特に江戸時代の江戸相撲初期には二段目自体の枚数が10枚以下であることも多く、二段目の史上最少枚数は宝暦11年(1761年)10月場所における14人(東西7枚)であるが、この当時は恐らく他の段と待遇差で区別される地位として確立していなかったと思われる。
優勝

優勝賞金は50万円。

大相撲本場所の幕下以下の取組ではスイス式トーナメントを導入している関係上[注釈 4]、定員が120人の幕下では、6番相撲まで6連勝した力士2人残り、七番相撲の勝者が7戦全勝で幕下優勝となる例が大半である。

一方、休場力士が続出したり、6連勝した力士2人が同部屋もしくは兄弟、親戚のため相星決戦が組めず両者共に星違いの力士に敗れたりして、全勝力士が不在になり、6勝1敗の力士複数名による優勝決定戦が行われる例も稀に発生する。逆に、6連勝した力士2人が同部屋や兄弟、親戚だったり、番付が著しく離れていたりしたため相星決戦が組めなかった際に、両者共に星違いの力士に勝利して、全勝同士の優勝決定戦が行われる例も更に稀に発生する[注釈 5]

なお、平成後期以降では6連勝した力士2人の相星決戦の際には場内アナウンスで力士、行司、呼出しの紹介の後で「なお、この取組の勝者は今場所の幕下優勝であります。」とアナウンスされる[注釈 6]
昇進・陥落要件

幕下に限らず、「番付は生き物」と俗称されるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではない。特に幕下では上位ほど、十両から陥落する力士数や十両以上の引退力士の有無によって大きく左右される。

1967年5月場所の幕内及び十両の定員改定に伴い導入された十両昇進に係る唯一の内規に、「幕下15枚目以内[注釈 7]で7戦全勝した力士は十両昇進の対象とする。ただし番付編成の都合による。」というものが存在し、7戦全勝同士の優勝決定戦で優勝を逃した場合にも適用されるが、但し書きのとおり、必ずしも幕下15枚目以内で全勝した力士を優先して昇進させることを保証したものではない。

幕下15枚目格付出に内規が適用するかは定かではなかったが、2006年5月場所に幕下15枚目格付出で全勝優勝した下田は、十両陥落者が少なかったため、「幕下15枚目格付出は幕下15枚目以内ではない」との理由付けで十両昇進はならなかった[注釈 8]。現行内規に該当した力士で十両昇進を果たせなかった唯一の例である。

全勝以外で十両昇進を確実とする成績としては、東筆頭での勝ち越しがある(小結以上が関わる成績を除いては1点でも勝ち越せば番付が半枚以上は上がるため、ただし番付編成の都合による)。対して西筆頭の場合は勝ち越しても優先的に昇進できるわけではなく、他の勝ち越し力士の成績と比較されることになるため、勝ち越しても昇進が見送りとなる事例もある[注釈 9]。稀に東筆頭で勝ち越しても据え置きとなるケースもある。

1枠に対して東筆頭の勝ち越しと15枚目以内の全勝が競合した例はなく、両者の優先順位や計算上十両に残留できる成績の力士を陥落させて2枠開けるか否かなどは不明である。なお、2012年1月場所では幕下西11枚目で吐合が6戦全勝としていたが、同成績で並んでいたのが同部屋の佐久間山(幕下東15枚目)のみだったため全勝同士の直接対決を組むことができず、吐合は5勝1敗の力士ではなく幕下東筆頭で3勝3敗としていた里山との対戦が組まれ、十両昇進を確実とする成績の力士が3人同時に現れることのない取組編成となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef