常陸合戦_(南北朝時代)
[Wikipedia|▼Menu]

常陸合戦(ひたちかっせん)は、南北朝時代1338年延元3年/暦応元年)から1343年興国4年/康永2年)にかけて、常陸国(現茨城県)の各地において、北畠親房南朝方の軍勢と高師冬北朝方の軍勢との間で行われた、一連の合戦である。


目次

1 背景

2 経過

3 参加人物

4 関連項目


背景

南北朝時代1338年延元3年/暦応元年)、南朝は有力武将北畠顕家新田義貞の相次ぐ戦死により、勢力を弱めていた。9月、南朝は勢力挽回を賭け、義良親王を奉じた大船団を伊勢国大湊三重県伊勢市)から海路東国へ派遣した。しかし船団は途中で暴風にあい、親王や各武将は各地に漂着した。北畠親房常陸国茨城県)東条浦へ到着。現地の南朝方の支援を受けて神宮寺城(茨城県稲敷市)に入った。
経過

神宮寺城が北朝方の佐竹氏に攻められ落城すると、北畠親房は阿波崎城を経由して小田治久の本拠である小田城(茨城県つくば市)へと移った。親房は小田城から関東各地の勢力の結集を呼びかける。『神皇正統記』は、この時期に執筆されたとされている。

1339年(延元4年/暦応2年)、関東執事職に就いた高師冬が南朝方への攻撃を開始。一進一退の攻防が続いた後、1341年興国2年/暦応4年)11月に小田城は開城し小田治久は北朝に降伏した。親房は脱出し関宗祐の関城(茨城県筑西市)に入り、下妻政泰の大宝城(茨城県下妻市)や伊佐氏伊佐城(茨城県筑西市)などと連携して抗戦を続けた。しかし1343年(興国4年/康永2年)、親房が頼りにしていた陸奥国白河福島県白河市)の結城親朝が北朝方に降伏。同年11月、関城・大宝城・伊佐城は陥落し、関宗祐・下妻政泰は戦死した。親房は東国を去り、吉野へ帰還した。

約五年にわたる戦いの結果、常陸国における南朝方拠点は一掃された。
参加人物
南朝勢

興良親王、北畠親房、結城親朝春日顕国伊達行朝、小田治久、関宗祐、関宗政、下妻政泰

太字は1343年までに北朝方に寝返った者

北朝勢

高師冬、上杉憲顕、結城直朝結城直光佐竹貞義佐竹義篤
関連項目

日本史の出来事一覧

日本の合戦一覧


更新日時:2012年1月17日(火)21:44
取得日時:2018/01/16 22:38


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:6276 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef