常設国際司法裁判所
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この項目では、戦前の国際連盟における司法機関、「常設国際司法裁判所」について説明しています。戦後の国際連合の司法機関、国際司法裁判所については「国際司法裁判所」をご覧ください。

常設国際司法裁判所
常設国際司法裁判所があったオランダ、ハーグの平和宮。現在ここには国際司法裁判所がある。
正式名称: Permanent Court of International Justice
: Cour permanente de justice internationale
日本語名称常設国際司法裁判所
略称: PCIJ
: CPJI
組織形態裁判所
所在地 オランダハーグ平和宮
座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度05分11.76秒 東経4度17分43.80秒 / 北緯52.0866000度 東経4.2955000度 / 52.0866000; 4.2955000
所長ホセ・グスタボ・ゲレーロ(英語版)
活動内容「国際的性質ヲ有スル一切ノ紛争ニシテ其ノ当事国ノ付託ニ係ルモノヲ裁判スル」
「聯盟理事会又ハ聯盟総会ノ諮問スル一切ノ紛争又ハ問題ニ関シ意見ヲ提出スル」
国際連盟規約第14条より
活動領域全世界
設立年月日1922年1月30日業務開始
1922年2月14日開廷
前身前例なし
廃止年月日1946年4月19日消滅
後身国際司法裁判所
上位組織国際連盟
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常設国際司法裁判所(英語: Permanent Court of International Justice、英語略称:PCIJ、フランス語: Cour permanente de justice internationale、フランス語略称:CPJI、両言語共に正式名)は、1922年に設立された国際連盟における国際司法機関で、国際社会に初めて登場した本格的な常設の司法裁判所である[1]オランダハーグにある平和宮に本部を置いていた。1922年から1940年までの期間に裁判を行ったが、処理した事件の件数については38の判決と27の勧告的意見(英語版)とする説や[2]、21の判決と26の勧告的意見とする説がある[3]1940年ナチス・ドイツがオランダに侵攻したのを機に活動を停止し、1946年4月に国際連盟とともに消滅した[4]国際連合のもとに設立された国際司法裁判所がこれを継承した[1]
歴史
創設期

かねてより国際法廷の必要性は長く主張されてきた。1305年にはピエール・デュボア(英語版)が、1623年にはエメリック・クルーセ(英語版)が主張している[5]。近年における国際司法の概念は1899年に開催された万国平和会議において提唱された。ここでは国家相互間の仲裁が、紛争を解決するのに最も簡易な手段であるとされ、仲裁のための判事候補者名簿として常設仲裁裁判所が一時的なものとして設置された。1907年に開催された二回目の万国平和会議では、常設仲裁司法裁判所条約(: convention for a permanent Court of Arbitral Justice[6])の草案が起草されたが、判事を選出する手続きについて各国の間で意見の一致が見られず、そのような機構を設置することはできなかった[7]第一次世界大戦を契機として、多くの識者たちはある種の「世界法廷」と言える組織の必要性を認識することになった[8]。1920年1月に発効した国際連盟規約第14条では、「聯盟理事会ハ、常設国際司法裁判所設置案ヲ作成シ、之ヲ聯盟国ノ採択ニ付スヘシ。」[9]と規定されていた[10]。1920年6月、国際連盟が任命した法律家委員会が、常設的な司法裁判所の規程の草案を作成し、判事任命の具体的指針を示した[11]。このようにして作成された常設国際司法裁判所規程(英語版)は、1920年12月13日にジュネーヴで採択された[12]

1922年1月30日、ハーグの平和宮にて裁判所は業務を開始した。最初の開廷期においては裁判手続の策定や職員の任命などの先決的な業務が行われ、9人の裁判官と3人の代理人(アントニオ・サンチェス・デ・ブスタマンテ・イ・シルベン(英語版) 、ルイ・バルボーザ(英語版)、王寵恵の3名が出席できなかったため)が出席した[13]。裁判所はベルナルド・ロデル(ドイツ語版)を裁判長、マックス・フーバー(英語版)を副裁判長に選出し、1ヶ月後に副裁判長はシャルル・アンドレ・ヴェイス(ドイツ語版)に代わった[14]。2月14日、裁判所は公式に開廷し、3月24日に手続規則を定め最初の開廷期を終えた[15]。裁判所が最初に紛争を審理するために開廷したのは6月15日であった[16]。1922年には、裁判所は3つの勧告的意見を下したが、それらはすべてヴェルサイユ条約により設置された国際労働機関に関連したものであった[B 1][B 2][B 3]

当初、政治家、法曹関係者、あるいは学者の裁判所への評判は良かった。元英国司法長官のアーネスト・ポロック(英語版)は、「弁護士ではない私たちは、国際的な司法裁判所の設立を、私たちが追求してきた学問の進化の証としてとらえてもよいのではないか?」と述べ、元慶應義塾大学教授で法学者のジョン・ヘンリー・ウィグモアは、裁判所の設立が「すべての法律家に大きな衝撃を与えるだろう」と述べた。また元ハーバード大学教授で同じく法学者のジェイムス・ブラウン・スコット(英語版)は、「私たちの世代が夢見ていたことの一つが、私たちが生きているうちに実現した。」と述べた[17]。アメリカ合衆国が裁判所規程の当事国となっていなかったにもかかわらずアメリカ人判事を任命したこともまた、大きな賞賛を集めた。この時点では多くの者はアメリカが近い将来当事国となるであろうと考えていた[18]
判例の増加と米国参加への試み

米国連邦最高裁判所のように、開廷後しばらくの間訴訟が持ち込まれないのではないか、という危惧を持つ者もいたが、常設国際司法裁判所の業務は次第に増加していった[19]。当時は判決(: judgment)のことを"cases"、勧告的意見(: advisory opinion)のことを"questions"と表現していた点で現在とは異なるが、裁判所には1922年から1923年の間に9事例の訴訟が持ち込まれた。そのうち3事例が前述のように最初の第一開廷期において処理され、1923年1月8日から2月7日の特別開廷期において1事例(「チュニスとモロッコの国籍法令事件(ドイツ語版)」[B 4])、6月15日から9月15日にかけての第二開廷期において4事例(「東部カレリアの地位事件」[B 5]、「ウィンブルドン号事件[A 1]、「ポーランドにおけるドイツ系農民事件」[B 6]、「ポーランド国籍取得事件」[B 7])、11月12日から12月6日の第二特別開廷期において1事例(「Jaworzina事件」[B 8])が処理された[20]。1923年3月1日、ルイ・バルボーザはいずれの裁判にも参加することなく死亡し、後継にエピタシオ・ペソア(英語版)が選出された[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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