艦歴
発注
起工1897年1月6日
進水1898年7月6日
就役1899年5月18日
その後1945年8月9日に損傷の後、8月15日に擱座[1]
除籍1945年11月30日
性能諸元(竣工時)
排水量常備:9,700トン
全長134.72m(垂線間長 124.36m)
全幅20.45m
吃水7.43 m
機関円缶12基
直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進 18,000hp
最大速21.5ノット
航続距離7,000海里(10ノット時)
兵員726名
装甲主水線帯 88-180ミリメートル
上部水線帯 125ミリメートル
甲板 50ミリメートル
兵装20.3cm (40口径) 砲 連装2基
1895年型 15.2cm (40口径) 砲 単装14基
毘式 1894年型 8cm (40口径) 単装速射砲 12基
47mm単装速射砲 8基
45.7cm水上魚雷発射管 単装1基
45.7cm水中魚雷発射管 単装4基
信号符字GQJS(1898年?)[2]
JLMA(1933年12月?)[3]
JUAA(1941年12月?)[4]
常磐(ときわ/ときは)は、大日本帝国海軍の装甲巡洋艦[5][6]。
旧式化にともない機雷敷設艦に改造[7][8]。敷設艦として太平洋戦争に参加した[9][10]。目次 軍艦「常磐」はイギリスで建造された日本海軍の装甲巡洋艦[11][5]。浅間型装甲巡洋艦の2番艦[5]。フィリップ・ワッツの設計によるもので[12]、イギリスのアームストロング・ホイットワースが、売却用に見込み生産していたものを購入したものである。艦名は「永久不変」を意味する常盤に依る[5][13]。 1904年(明治37年)からの日露戦争で活躍、1905年(明治38年)5月下旬の日本海海戦に参加した[5]。第一次世界大戦にも極東から太平洋方面の作戦に参加した[5]。大正時代になると、旧式化により海防艦に艦種変更[14]。続いて1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて敷設艦に改造される[11][5]。1927年(昭和2年)8月1日、戦技訓練中に爆発事故が発生、死者35名と負傷者68名を出した[15]。修理後は支那事変(日中戦争)における中国大陸沿岸部の作戦に従事。1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時は第四艦隊麾下の第十九戦隊に所属しており、主に中部太平洋諸島方面で行動した[11]。1943年(昭和18年)6月に日本本土に帰投後は日本近海で訓練や機雷敷設任務に従事[11]。1945年(昭和20年)8月9日、大湊で米軍機の空襲を受け大破[11]。終戦の日を迎え、1946年(昭和21年)に解体された[6]。明治から昭和にかけ、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争の全期間にわたって第一線で活動した殊勲艦・幸運艦である[16]。 巡洋艦「常磐」は姉妹艦「浅間」に続いて、イギリス・アームストロングで建造された[17]。1897年(明治30年)1月6日にアームストロングで起工[18]。10月18日、イギリスで建造の第3号一等巡洋艦は「浅間」、第4号一等巡洋艦は「常磐」と命名された[19][20]。10月21日、軍艦常磐は呉鎮守府所管と定められる[21]。1898年(明治31年)3月21日、海軍軍艦及水雷艇類別標準の制定により、一等巡洋艦に類別[22]。7月6日進水[18]。1899年(明治32年)5月18日に竣工[18]。翌日(5月19日)、日本回航のため出発[23]、同年7月16日に横須賀に到着した[5][24]。1900年(明治33年)6月19日、北清事変に出動するため佐世保を出撃[25][26]。
1 概要
2 艦歴
2.1 装甲巡洋艦・海防艦
2.2 敷設艦
2.2.1 機雷爆発事故
2.2.2 南洋諸島
2.2.3 日本近海
3 艦歴
4 艦長
5 同型艦
6 参考文献
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
概要
艦歴
装甲巡洋艦・海防艦