常磐緩行線
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「常磐線各駅停車」はこの項目へ転送されています。取手駅以北で各駅に停車する中距離普通列車上野駅 - 取手駅間で快速線を走行)については「常磐線」をご覧ください。
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常磐緩行線

常磐緩行線を走るE233系2000番台(2019年4月)
基本情報
日本
所在地東京都千葉県茨城県
起点綾瀬駅
終点取手駅
駅数14駅
経由路線常磐線
路線記号JL
開業1971年4月20日(運行開始)
所有者東日本旅客鉄道(JR東日本)
運営者東日本旅客鉄道(JR東日本)
車両基地松戸車両センター松戸車両センター我孫子派出所綾瀬検車区(東京メトロ車)、海老名検車区(小田急車)
使用車両車両を参照
路線諸元
路線距離29.7 km
軌間1,067 mm
線路数複線
電化方式直流1,500 V
架空電車線方式
閉塞方式車内信号閉塞式
保安装置ATC-10ATO
最高速度90 km/h
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常磐緩行線(じょうばんかんこうせん)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線のうち、東京都足立区綾瀬駅から茨城県取手市取手駅までの複々線区間において、各駅停車の電車が運行される線路(緩行線)である。駅ナンバリングで使われる路線記号はJLで[注 1]、番号部分は直通運転を行っている東京地下鉄(東京メトロ)千代田線代々木上原駅からの連番(代々木上原駅を01とみなす)になっている[1]
概要

東京地区の電車特定区間E電)の運転系統の一つである。東京メトロ千代田線と直通運転を行い、東京都心と千葉県北西部(東葛地域)の松戸我孫子地区および茨城県南部の取手の各都市を各駅停車で結んでいる。また、一部の電車は千代田線を経由して小田急小田原線伊勢原駅まで直通している。

JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代、通勤客の増大に伴い、列車およびターミナルである上野駅日暮里駅の混雑緩和を目的として、通勤五方面作戦の一環として北千住駅 - 我孫子駅間の複々線化が1971年(昭和46年)に行われ、同時にそれまで各駅停車として上野駅 - 取手駅間を運転していた電車の緩急分離が行われた[2]。以降、線路の通称として各駅停車が走行する線路が「常磐緩行線」、新設された快速電車と取手以北直通の列車が走行する線路が「常磐快速線」と呼ばれるようになった。この緩急分離により、各駅停車は帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現・東京地下鉄)千代田線と直通運転を行う現在の形態となった(後述)。その後1982年(昭和57年)に緩行線が取手駅まで延伸され、現在の形態となっている[2]

一部の駅にのみホームがある快速線に対して、緩行線は全駅にホームがあり、運転される電車もすべて各駅停車である。

ダイヤグラム・運行システム・車両は直通する千代田線と一体化したものである。常磐快速線との渡り線は松戸駅・我孫子駅付近に設置されているが、保安システムが異なるため緩行線と快速線の直通運転を行う定期列車は設定されていない。

東京のJRの放射路線としては唯一都心(山手線)に至らない系統であるため、千代田線の北千住駅 - 西日暮里駅間を経由しJR線に乗り継ぐ場合に通過連絡運輸の特例も設定されている(後述)。

2004年以前は、小田急電鉄がJRの一斉改正日でない日にダイヤ改正を行っていたため、これに伴ってJR東日本のダイヤ改正時以外にも運行時刻の変更が行われることがそれなりにあった。ただ、運用や行先の変更が主で、線内での時刻変更は基本的にない。なお、2006年以降はJRと同日に改正を実施するようになっている。

複々線区間は全線に亘って踏切がなく、直通線区以外から乗り入れてくる車両もないため、将来導入を予定している技術の実験場として使われることも多い。
呼称について

旅客案内上は、東京メトロ千代田線の北千住駅 - 綾瀬駅間を含んだ北千住駅 - 取手駅間の運転系統名として「常磐線各駅停車」「常磐線(各駅停車)」と呼称されている[3]

北千住駅 - 綾瀬駅間は実務上JR線として運賃計算する場合と東京メトロ線として運賃計算する場合の2つに分かれる特殊な区間となっている[4]。このような特例は他[注 2]でも見受けられるものであるが、北千住駅 - 綾瀬駅間に関してはJR東日本は第二種鉄道事業者ではないため、厳密には東京メトロの単独区間である[注 3](北千住駅 - 綾瀬駅間の運賃の取り扱いについては「運賃計算の特例」の節を参照)。

各駅停車は地下鉄千代田線との直通運転により一体的に運用されているため、各駅停車は地下鉄区間とあわせて「千代田線」と呼ばれる場合がある。市販されている地図にも千代田線と表記したものがある[6]ほか、不動産物件にも「千代田線北松戸駅」「地下鉄千代田線北柏駅」等の案内がある。不動産ポータルサイトなどでは「(JR)千代田・常磐緩行線」などの表記も散見される。
複々線化の沿革と問題
複々線化以前

元々常磐線は上野 - 取手間の各駅に停車する「国電」(近距離電車)と主要駅のみ停車の中距離列車急行・特急などが同じ線路を走行していた。当時は中・長距離輸送を担う列車に対して地域輸送を担う電車(国電)は停車駅も異なり棲み分けが明確であった。過去には、一部の「国電」が上野・東京経由で有楽町まで乗り入れていたこともあった(山手線京浜東北線分離工事時の暫定措置)。なお、常磐線の線路にホームのない鶯谷駅は通過していた。

一方、高度成長期を迎えると共に沿線のベッドタウン化が進んで人口が急増し、常磐線の混雑率も非常に高くなったものの、各種列車が同一線路上を走行していることによってさらなる増発が困難になったため、いわゆる「通勤五方面作戦」の一環として複々線化を実施することになった。

1962年に発表された運輸大臣の諮問機関「都市交通審議会」の答申では、北千住 - 松戸間について東京8号線(のちの9号線)が計画されていた。このため国鉄は、このルートの終点を取手まで延長する形で国鉄線を線増し、緩行線を地下鉄千代田線と直通運転させる形で複々線化を実施することとした[注 4]。また当時、北千住 - 綾瀬間は国鉄の路線であったが、複々線化・千代田線との乗り入れに際して建設費用を抑えたい国鉄と、足立区内に設置する車庫(現:綾瀬検車区)への回送ルートを確保したい営団の思惑が一致し、北千住 - 綾瀬間の緩行線を営団保有にして、複々線化と千代田線との直通運転が同時に行われることとなった。ただし、運賃計算上は北千住駅 - 綾瀬駅間は従来どおり国鉄線運賃として計算される特例が設けられた[注 5]。また複々線化に際し、従来の「国電」(近距離電車)を「各駅停車」と「快速」の2種別に編成し、各駅停車を緩行線に、「快速」を日暮里・上野方面へと向かう快速線に振り分けることとした。

また複々線化区間から外れた中距離列車通過駅の三河島駅南千住駅天王台駅(複々線化と同時に開業)には東京近郊輸送を担う快速のみが停車し、快速線のホームは複々線区間の両端の北千住駅・我孫子駅と車両基地のある松戸駅にのみ設けられることになった。この結果快速通過駅の利用客は乗り換えなしで日暮里駅や上野駅まで行けなくなるため、不便を解消するために営団・国鉄の双方に乗換駅として西日暮里駅を新設するとともに、同駅を経由する通過連絡運輸の特例が設けられることとなった。

工事予算と地下鉄千代田線への旅客の転嫁見込み、ならびに貨物列車の運行や当時建設中であった国鉄武蔵野線との接続方法等について検討された結果、緩急乗り換え利便性の高い方向別複々線での建設が見送られ、他の首都圏国鉄主要路線と同様の線路別複々線となった[7]。このため我孫子駅・柏駅・松戸駅・北千住駅等での各駅停車と快速等の乗り換えでは階段を使用してホーム間を移動することになった。

複々線化の前後では、運転種別や停車駅が以下の表のように変遷している。

第一期複々線化完成(1971年4月20日)前後の
停車駅の変遷

複々線化以前各駅停車(国電)●●●●●●●●●●●×●●●×●×●
普通列車●●――▲―――●――×――▲×●×●
駅名上野日暮里三河島南千住北千住綾瀬亀有金町松戸北松戸馬橋新松戸北小金南柏柏北柏我孫子天王台取手
第一期複々線化直後普通列車●●――▲―――●―――――※―●―●
国電快速電車●●●●●―――●―――――※―●●●
各駅停車====○●●●●●●*●●●●●==

●○:停車(○は厳密には千代田線) ▲:一部停車 ―:通過 ×:駅開業前 =:経由せず

※:柏駅の快速停車は1972年(昭和47年)10月から。当初の停車は快速電車のみで、普通列車は一部停車であった。

*:新松戸駅は1973年(昭和48年)開業。

複々線工事期間

1965年(昭和40年)2月、綾瀬 - 我孫子間 (23.6km) の複々線増線の工事が第1期工事として開始された。

北千住 - 綾瀬間の増線は営団が千代田線の新設工事として若干先行して行ったが、その完成後に東武線との交差部から営団が1968年(昭和43年)2月1日に完成させた綾瀬駅間の線路および駅設備を借受け、複々線開通まで常磐線全列車が暫定的に使用した。これは常磐線の高架化に際し工事用地の取得が困難なための処置であった。国鉄常磐線の複々線増線時、綾瀬駅付近の線路切替の様子

工事は主に東京側から順次進められ、1971年(昭和46年)3月1日、綾瀬 - 金町間の複々線が暫定で開通し国電と優等列車・貨物列車の分離が行われた。続いて同年3月10日には金町 - 北柏間が暫定で開通、4月1日に北柏 - 我孫子間が開通し複々線の工事は完了した。

4月19日に、我孫子駅で常磐線複々線完成祝賀式が行われ、我孫子 - 綾瀬間で「複々線工事完成祝賀電車」が乗客を乗せ運行された。
複々線化後常磐線複々線化当初の各停用車両103系1000番台

1971年(昭和46年)4月20日に複々線化と緩行線の千代田線乗り入れが開始された。国鉄は、当時まだ旧形電車が多く運行されていた京浜東北線向けに103系を捻出する必要性から、10両編成で運行されていた青緑1号に塗られた103系電車を快速電車に転用する際、2両減車して8両編成とした[8]。これは、複々線化により輸送力が上がっていることと、快速通過駅利用客が地下鉄への直通運転によりそのまま都心へ向かうことを念頭に置いたものであったが、当時は国鉄の運賃の方が安く、北千住 - 西日暮里間を千代田線経由で乗車して山手線や京浜東北線に乗り換える場合や、地下鉄経由で都心へ向かう場合の合算運賃が割高となる例が多く、地下鉄路線網も整備途上であったため、利用者の多くは松戸駅や北千住駅での乗換を選んだことで快速電車は大混雑した。このため、この直通運転・複々線化は新聞などで「迷惑乗り入れ」と糾弾される事態に発展した。これに対し国鉄は、千代田線乗り入れ開始とともに常磐線での営業運転を終了するはずであった旧形の72系電車を使用して臨時の快速電車を設定して輸送力を増強し、その置換用の103系が増備されるまでの約1年間をしのいだ。また、1972年10月に快速用103系が再び10両編成に増結され、松戸駅乗り換えによる混雑の要因の一つでもあった、快速通過駅とされた柏駅にも快速線にホームが新設された。

複々線化開業直前、綾瀬駅など都内の快速通過駅では上野駅へ行く際に乗り換えを強いられることや運賃が割高になることを理由に複々線化に不満を抱く利用者がいた。そのため、開業後には千代田線と常磐線のどちらを経由しても運賃を同じにし、綾瀬駅への快速停車または上野行き電車の復活を求める抗議集会が開かれた[9]。だが運賃問題は半世紀たっても解消されず、2022年10月には亀有駅・金町駅周辺の一部住民16人がJR東日本・東京地下鉄・国に対して不当な運賃設定だとして損害賠償請求を起こしている[10]

1970年代後半に入ると、藤代 - 土浦間の交流電化区間までベッドタウン化が進行したことから、輸送力増強のため近郊形電車としては初のオールロングシート車となる415系500番台が投入された。当時の中距離列車はデータイムで1時間に1本、夕方のラッシュ時でも2本程度だったのが国際科学技術博覧会(つくば科学万博)開催直前の1985年(昭和60年)3月の改正で大増発され、編成も最長15両となった。1987年12月には、103系の快速電車も通勤形電車としては初めて15両編成化された。

一方、複々線化と相互乗り入れによる影響は営団の労働組合日本私鉄労働組合総連合会)によるストライキ時にも顕著にあらわれた。ストライキが発生すると、北千住 - 綾瀬間は営団の路線であることから電車の運行ができなくなるため、やむを得ず綾瀬 - 金町間各駅の乗客は松戸駅まで一旦戻って上野方面へ向かえるように定期乗車券利用者には特例を設けて対処した[注 6]。しかし、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}前述のように松戸駅自体が元々混雑していたため、同駅はパニック状態に陥り、長蛇の列が駅の外にまでできる事態に発展した。


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