常磐津文字太夫
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常磐津節中興の祖と謳われている、初代常磐津豊後大掾(四代目常磐津文字太夫)の死絵。没後(1862年8月8日)に作成されたもの。戒名は「興徳院禎巌良祥居士」。菩提寺は代々の宗家家元文字太夫が眠る広尾祥雲寺初代歌川国明(一凰斎国明)画。

常磐津 文字太夫(ときわづ もじたゆう)は、浄瑠璃三味線音楽・語り物)の1つである常磐津節宗家家元名跡。当代は十七世家元・九代目常磐津文字太夫。常磐津は古浄瑠璃時代からの流れをくみ取り、初世家元を、大阪道頓堀で最古の人形操りの芝居小屋(出羽座)を興行した太夫「伊藤出羽掾」、二世家元をその弟子で世話物浄瑠璃元祖ともいわれる「文弥の泣き節」で好評を博した「二代目岡本文弥」、三世家元を京都南座の前身「都万太夫座」を創立し、近松門左衛門初代坂田藤十郎とくみ元禄期の全盛を迎えた「都越後掾(都万太夫)」、四世家元をその弟子で一中節を創始した「都太夫一中(都一中)」、五世家元をその弟子の「宮古路豊後掾(都国太夫半中)」、そして、常磐津を創始した初代常磐津文字太夫を六世家元と数えている。歴代の家元文字太夫は、渋谷区広尾にある祥雲寺(しょううんじ・瑞泉山・臨済宗大徳寺派)に祀られている。
初代初代文字太夫が語った『蜘蛛糸梓弦(蜘蛛の糸)』の題材となった源頼光四天王の伝説が、浮世絵師歌川国芳によって描かれたもの。『源頼光公館土蜘蛛妖怪図』。初代文字太夫は東海道の起点である江戸日本橋の檜物町(ひものちょう)に居を構えた。『東海道五十三次日本橋」』歌川広重作。

宝永6年(1709年) - 天明元年2月1日1781年2月23日)。常磐津六世家元。常磐津節の創始者。本名・駿河屋文右衛門。京都仏具商。享保初期頃に宮古路国太夫(宮古路豊後掾)の門弟となり、のちに養子となる。はじめ宮古路右膳を名乗っていたが、1733年に宮古路文字太夫と改名し京都から名古屋を経て江戸に下り、1735年に好評を博した豊後掾の出世作「睦月連理玉椿」でワキ語りを勤める。1736年3月市村座「小夜中山浅間巌」で立語りとなったが、町奉行より風紀を乱すとの理由で、豊後節は大弾圧を受け全面禁止となる。その装いは文金風といわれ、弾圧の対象となったのは、年齢を考えると豊後掾ではなく、文字太夫であったという説が有力である。1736年に豊後節が禁止。1740年に養父豊後掾が亡くなると、1746年には七回忌に際して浅草寺境内に宮古路豊後掾の慰霊碑を建立。豊後節が分派活動を始めたが、やがて豊後節の再興が許され、1747年に宮古路姓を改め関東文字太夫と名乗った。しかし「関東の名は穏やかならず」と北町奉行から禁止されると、同年11月に中村座において、二代目市川團十郎初代澤村宗十郎初代瀬川菊之丞が揃った「三千両の顔見世」で常磐津文字太夫の看板を掲げて大当たりを得る。そのあと1748年には、豊後節(宮古路姓)時代からの弟弟子である初代常磐津小文字太夫が独立し富本節(のちに清元節が輩出される)を創流。文字太夫は以降30年ものあいだ江戸三座で活躍し、1773年市村座「錦敷色義仲」を最後に引退した。宝暦3年(1753年)春、市村座での「鐘入妹背俤」の出語りで大好評を博す。壕越二三治との合作で「芥川紅葉柵」等を作曲。文字太夫の節付けの面白さ、巧妙な作詞、役者による優れた所作と三拍子が揃ったので、豊後節を継承した新しい浄瑠璃としての常磐津が江戸歌舞伎に定着する端緒となった。隠居名(号)松根亭松寿斎。掛軸肖像画は初代柳文朝作、初代文字太夫直筆の「老松」詞章。

代表曲:「老松」「蜘蛛の糸」「子宝」
二代目二代目常磐津文字太夫の布製の系図。国立音楽大学蔵。現在、常磐津古浄瑠璃の芸脈を遡り、初代常磐津文字太夫を六代目家元として数えているが、すでに二代目文字太夫の時代(1787年?1799年)には『七代目家元・二代目常磐津文字太夫』という数え方をしていた。二代目文字太夫が語った『四天王大江山入(古山姥)』の題材となった山姥金太郎(のちの坂田金時)の伝説が、浮世絵師喜多川歌麿によって描かれたもの。『山姥と金太郎 盃』。

享保16年(1731年) - 寛政11年7月8日1799年8月8日)。常磐津七世家元。初代常磐津文字太夫の門弟(のち養子)。本名・越後屋佐六。隠居名(号)は文中。弟は1799年に別派(吾妻派)を起こして常磐津を離れた二代目兼太夫。志妻太夫(豊名賀派)、造酒太夫(富士岡派)が佐々木派の三味線弾き達とともに常磐津を去ったのち、1769年鐘太夫から兼太夫と改め、初代文字太夫のワキ語りに抜擢される。1773年初代文字太夫が引退すると翌年養子となり、4月守田座「明櫻旅思出」で立語り、同11年より顔見世番付の筆頭として活発に歌舞伎興行に出勤する。1787年初代文字太夫の七回忌に、初代の遺族から一代限りの条件で相続し二代目文字太夫を襲名。「積恋雪関扉」「紅葉傘糸錦色木」等大曲を節付け、初演した。掛軸肖像画は堤秋月作、二代目文字太夫直筆の「老松」詞章。

代表曲:「善知鳥」「関ノ扉」「四天王大江山入」「戻駕」「吉田屋」
三代目

寛政4年(1792年) - 文政2年12月1日1820年1月16日)。常磐津八世家元。二代目常磐津文字太夫の実子。幼名・林之助。前名二代目常磐津小文字太夫1799年にわずか8歳で二代目常磐津小文字太夫を襲名。1807年には江戸三座のひとつ市村座「花安宅扇盃」で立語りをつとめ、1808年に元服。同年、七代目市川團十郎の弟分となる。病気等による休演が多かったが、継続的に江戸三座に出勤し常磐津を盛り立てた。1819年には文字太夫を襲名するが、病気のため20代で早世する。掛軸肖像画は初代歌川豊国作、三代目文字太夫直筆の「老松」詞章。

代表曲:「源太」「景清」「心中翌の噂」「三つ人形」
四代目八代目市川團十郎が旅先で急逝した直後、大阪の弟子が江戸の常磐津豊後大掾にあてたという知らせの手紙。常磐津家元は市川宗家と深いつながりがあるため、豊後大掾の驚きは相当のものであったという。市川宗家の團十郎茶と、常磐津の柿色の肩衣(かたぎぬ)の関連性が説明されたもの。五代目市川門之助書。従来、「常磐津の肩衣は柿色」「蛸足(たこあし)は朱色」と表現されていたが、厳密には日本の伝統色である「照柿色の肩衣」「真朱色の蛸足見台」である。中村座積恋雪関扉(関の扉)』の錦絵。六代目常磐津小文字太夫(子息)の出語りを、向かって左の初代常磐津豊後大掾(四代目常磐津文字太夫)が見守っている。四代目文字太夫の語った『忍夜恋曲者(将門)』の題材となった、平将門の娘である滝夜叉姫の伝説が、浮世絵師歌川国芳によって描かれたもの。『相馬の古内裏』。

文化元年(1804年) - 文久2年閏8月8日1862年10月1日)。常磐津九世家元。初代文字太夫の曾孫。前名三代目常磐津小文字太夫。後の初代常磐津豊後大掾。父は歌舞伎役者の初代市川男女蔵。母・みつの祖父である狂言作者中村傳七の名跡も八代目として継承している。幼少期は市川男熊の名で役者として出演。しかし1819年三代目文字太夫が急逝したため、父・初代市川男女蔵の母(二代目市川門之助の妻お亀)が初代文字太夫の次女であった縁故から常磐津家元後継者として迎えられ三代目小文字太夫を襲名。1820年には江戸三座番付筆頭となり、河原崎座「老松」「操常磐島台」で立語りとなり、三代目尾上菊五郎が襲名の口上を述べた。1823年の元服式では七代目市川團十郎が烏帽子親になり、1830年には「元祖宮古路豊後掾百年・初世文字太夫五十年」と銘打ち、小文字太夫名弘め会を開催。


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