常磐松町
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常磐松町(ときわまつちょう)は、かつて東京都渋谷区にあった町名である。現在の1丁目、東4丁目、渋谷4丁目、広尾3丁目にまたがる[1]
目次

1 概要

2 常陸宮邸

3 常磐松に存在した諸学校

4 常磐松

5 常磐松に縁のある人物

6 脚注

概要

1928年昭和3年)に設置された[2]。旧地名である東京府豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字常磐松に由来する。

常磐松の地名の由来は、古くからのこの地に「千両の値打ちが付くほどの銘木」と賞賛されていた松の古木、「常磐松」があったことによる[2]。もとの漢字表記は「常盤」であったが、「皿は割れるから」と、「常磐」と改められた[2]

この一帯には幕末薩摩藩島津家の地所であり、これが明治時代以降、1912年明治45年)頃まで皇室の「御料乳牛場」となっていた[3]大正時代の始め頃までの地形図によれば、「御料乳牛場」は現在の常陸宮邸から青山学院初等部にかけて所在し、ここでとれる牛乳は皇室に献上されていた[2]

1966年(昭和41年)4月1日の住居表示実施・町名変更により、一部の道路敷を除いて東と渋谷に分割され事実上消滅した[2](残余部は同年7月1日に広尾3丁目に吸収)。新町名が「東」という記号的なものになったのは、新町名を巡って常磐松町と氷川町(渋谷氷川神社に由来する)の住民が対立したため、やはり両町と合併することになっていた恵比寿東から「恵比寿」を抜いた妥協案を採用したためである。現在、常磐松の地名は、かつての町域に建つビルやマンションの名称などに冠されているのがみられるほか、渋谷区立常磐松小学校の名前に残っている。
常陸宮邸 常陸宮邸(常盤松御用邸)の杜

1964年(昭和39年)正仁親王常陸宮家を創設するにあたり、宮邸は常磐松町の常盤松御殿(旧東伏見宮邸)に定められた。常盤松御殿はそれまで、正仁親王の兄である皇太子明仁親王(後の明仁上皇)の東宮御所であった[4]
常磐松に存在した諸学校

東京農業大学の前身である大日本農會附属私立東京農学校は1898年(明治31年)10月に常磐松御料地に移転・開校(常磐松校舎)した。1945年(昭和20年)5月25日にアメリカ軍による空襲を受けて大部分を焼失。戦後は校地を青山学院に売却して世田谷に移転した。青山学院は現在も当地に校舎を設置している。

國學院大學とその母体である皇典講究所は、1923年(大正12年)に麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)から、常磐松御料地(常磐松校地)及び道路を挟んで隣接する氷川裏御料地(若木校地)へ移転し、現在まで当地に設置されている。

実践女子学園の前身となる実践女学校・女子工芸学校は1902年(明治35年)が常磐松御料地(渋谷校地)に開校した。実践女子大学実践女子短期大学1986年(昭和61年)に都下日野市に移転したが、実践女子学園中学校・高等学校は現在も当地に設置されている。また実践女子大学・実践女子短期大学で毎年11月に開祭される学園祭は現在も「常磐祭」と称されている。

トキワ松学園1916年大正5年)、常磐松女学校として常磐松1番地に設立された[5]。東京大空襲を受けて校舎を焼失[5]1948年(昭和23年)に目黒・碑文谷に移転した。
常磐松

常磐松町の由来となった松の木は、大正期の地形図によれば現在の高松宮邸内の御用地にあった。この松は見事な枝振りの老木で、その由来には源義朝側室常磐御前が植えたという説と、世田谷城主吉良頼康の側室・常盤が植えたという説の二説があった[3]

その松は東京大空襲の被害を受けて焼失[2]、戦後は新たな松に植え替えられ、現在の渋谷区渋谷区東4-4-9にある薩摩藩士によって建てられた「常磐松の碑」の傍らに新たに存在する[3]

東京農業大学のスクールカラーは「松葉緑(まつばみどり)」と呼ばれる緑色であるが、これは常磐松の緑色に由来する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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