常宮神社
拝所(福井県指定有形文化財)
所在地福井県敦賀市常宮13-16
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分25.36秒 東経136度1分46.63秒 / 北緯35.6903778度 東経136.0296194度 / 35.6903778; 136.0296194 (常宮神社)
常宮神社(じょうぐうじんじゃ)は、福井県敦賀市常宮にある神社。式内社論社で、旧社格は県社。神紋は「十六弁八重菊」「巴」「桐」[1]。
古くは氣比神宮(越前国一宮)の奥宮・摂社であった。 常宮神社は古くは「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された[2]。この「常宮」とは、神功皇后の神託の「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」にちなむという[3]。古くは「つね(の)みや」と訓読みされたが、中近世から「じょうぐう」と音読みされるようになり、明治元年(1868年)に現在の社名・読みに定められた[4]。 また、平安時代中期の『日本文徳天皇実録』や『延喜式』神名帳に見える「天八百万比盗_社(天八百萬比盗_社:あめのよろずひめじんじゃ)」は古代の常宮神社を指す社名とされる[3](異説もある[注 1])。 そのほか、常宮神社は氣比神宮と深い関係にあったため、古くは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されていた[5]。 祭神は次の7柱[6]。 社伝では天八百萬比当スは養蚕の神として上古より鎮座したということから、天八百萬比当スは在地の神であると考えられている[7]。他の6柱は神功皇后の出征伝説に基づいた大宝3年(703年)の合祀と伝えられるが[5]、これは当時の八幡信仰の広がりに伴った合祀であると推測されている[8]。主祭神が伊奢沙別命(氣比神宮主祭神)ではなく天八百萬比当スであること以外は、これらの祭神は氣比神宮と同じである。常宮神は気比神と関係が深いとされており、氣比神宮から参詣を受ける総参祭(例祭)は、一説には伊奢沙別命が天八百萬比当スを訪れる神事であるともいう[5]。 本殿の祭神については、享保3年(1718年)の『常宮本紀』や明細帳では上記のように3座である旨が記載されている[7]。しかし、別説として『気比宮社記』(氣比神宮の古記録)では祭神を2座とし、主神は神功皇后であって「天八百萬比当ス」はその別名であるとし、仲哀天皇を相殿に祀るとしている[9]。 神功皇后は常宮で腹帯を付けて筑紫で応神天皇を出産したという故事から、常宮神社は安産の神として信仰されている[7]。また、神功皇后が三韓征伐に際して海路の無事を祈願したとの故事から、航海や漁業の守護神としても信仰される[7]。 社伝では、主祭神の天八百萬比当スは上古より当地に鎮まっていたという。そして、仲哀天皇2年2月に天皇と神功皇后が気比神を拝してから三韓征伐に赴く際、天皇は単身紀伊を経て長門へ向かったが、皇后はなお常宮に留まって外征の謀をめぐらし、6月初卯の日に出征したと伝える[6]。
社名
祭神
本殿(本宮)
天八百萬比当ス(あめのやおよろずひめのみこと) - 通称「常宮大神」。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
本殿周囲4社
東殿宮:日本武命(やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 神功皇后の妹。
西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
歴史
創建氣比神宮(敦賀市曙町)越前国一宮。常宮神社とは深い関係にある。