帯谷孝史
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帯谷 孝史
生年月日 (1950-03-16) 1950年3月16日(72歳)
出身地 日本大阪府八尾市
言語日本語
方言大阪弁
事務所吉本興業
現在の代表番組よしもと新喜劇
配偶者未婚(離婚歴、3子あり)
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帯谷 孝史(おびたに たかし、1950年3月16日 - )は、日本のお笑いタレント喜劇俳優である。吉本新喜劇の座員。大きな鼻(横顔)をポットに間違われるギャグで1990年代の新喜劇において一世を風靡した。大阪府八尾市出身。吉本興業所属。一般的な愛称は、ポット。芸人からは、帯やん、帯兄(おびにい)、鼻。
来歴・人物

八尾市の生まれ。興國高等学校卒業後、自動車整備工場、ボウリング場、プラスチック製造工場、ちり紙交換などの仕事を経て1972年吉本新喜劇に入団。

中学生時代に、テレビで吉本新喜劇を観ていて、「これ(を)、やろか(しようか)」と思い、お笑いの道を志すようになる。決して憧れというほど大それたものではなかったという[1]。入団については、はじめ高校卒業後に履歴書を持って吉本興業の本社へ行き 「新喜劇に入りたいんです」と直談判するも、中邨秀雄(のちの社長)が出てきて 「今、新喜劇はいっぱいや」と言われ断られる。中邨の言い方から、「これは入団させてもらえるまで時間がかかりそうやな」と思った帯谷は、アルバイトをしながら、玉造にあった劇団のアカデミーに1年間在籍した。そこから吉本新喜劇に入れてもらおうとしたが、松竹新喜劇に連れて行かれ、その際、藤山寛美の楽屋で寛美らと話すことができたものの、結局松竹へ行くという話にはならなかった[1]

続いて帯谷は、当時の柳家金語楼に弟子入りをしようと上京。家を捜して訪ねると、出てきた女性マネージャーから 「今は内弟子を取っていないから、住むところとアルバイト先を決めてから来なさい」と言われる。それを聞いた帯谷は、中学の修学旅行でしか東京の知識や経験がない上にお金もほとんど持っていなかったことから、諦めて帰阪した[1]

その後、再度履歴書を持って吉本へ行くが、また中邨が出て来て、「今いっぱいや」と再び断られる。「これはいよいよアカンなあ」と思った帯谷は、今度は花菱アチャコのもとへ行き弟子入りを志願した。直に会って頼んだが、 「ワシ、もう歳で、弟子はとってないねん」と、ここでも断られる。そんな中で、母親から、「漫才を辞めて民謡の師匠をしている人」のツテを紹介された帯谷は、その師匠からさらになんば花月の当時の支配人を紹介してもらい、その支配人の預かりで、ようやく新喜劇(吉本興業)に入ることができた。最初に吉本に出向いてから約4年かかっての入団だった[1]
入団後

若手の頃は、佐藤武司と飛んだり跳ねたりの乱闘を繰り広げる「カミナリコンビ」として売り、その後も平参平岡八郎花紀京原哲男船場太郎らのもとで、ヤクザ、チンピラ、青年、刑事役などをこなしながら実力をつけ、比較的セリフや出番の多い中堅として重宝された。

1989年の「新喜劇やめよッカナ?!キャンペーン」の際に退団し、2年間は地方公演などがおもな仕事となったが、その間に後述のポットに関するギャグが成熟し、復帰後の飛躍の足掛かりとなった。

1991年に復帰してからは、ポットのギャグで大きく知名度を上げた。基本的に受け身の芸風であるため、島木譲二のような派手さはないが、確かな人気を獲得して「ポッと出の役者」と言われた。

1990年代は今田耕司東野幸治130Rらを加入させて新しい風を吹き込み、その後内場勝則辻本茂雄石田靖吉田ヒロにニューリーダーとして引き継がせることで、ベテラン・中堅・若手が化学反応を起こして、新喜劇が再び大きな盛り上がりを見せていた時期であり、同時に帯谷の全盛期でもあった。帯谷は、「自分が知る新喜劇の中では、この頃(ニューリーダー以前)が一番面白かった。(座長など)誰か特定の役者が目立つための劇ではなく、みんなの劇なんだという感覚で、みんなで意見を出し合いながらやっていた」と述べている[2]

新喜劇の座長制については池乃めだかとともに先見の明があり、「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一人の人間が考えることなんて、無限の引き出しがあるわけではないから、結局は過去のツギハギとなり、座長(の好み)によってストーリーのパターンが固定されてしまう[要出典]」[2]「ひとつにまとまりにくいということはあるが、みんなでディスカッションをしてアイディアを出し合いながら決めていった方が良い[要出典]」[2] などと批判的であった。
自身の役柄と立場逆転・転落

しかし一方、プライベートではいわゆる昔ながらの芸人を地で行っており[注 1]、女性関係や博打で多額の借金を抱えていた。この借金問題は、座員をはじめ芸人のトークにおいて、少し困ったエピソードとして時折話の種になっていた。DVD『シネマワイズ新喜劇 vol.6「たこやき刑事」』の特典映像にて、桑原和男が借金について帯谷に苦言を呈するシーンが収録されているほど、問題がこじれていた。
無期限謹慎・新喜劇から追放

前述の借金がかさみ、劇場まで借金取りが押しかけて来るトラブルに発展。1999年9月、吉本興業は帯谷に無期限謹慎処分を下し、新喜劇の檜舞台から事実上の追放となった。当時の吉本幹部陣を激怒させたことから、吉本新喜劇の座員およびOBとの共演は(幹部陣が全員退職するまで)不可能となっていた。また同時期に、プライベートでも借金問題や女性問題から、15年連れ添った妻と離婚している[注 2]
再起・地方公演、京橋花月で復帰

新喜劇追放後は、NSC1期生で元新喜劇座員でもある漫才師の浜根隆が経営するエアコンクリーニング会社エンジョイ life HAMINIで働くなどアルバイト生活を送っていたが、2002年8月24日に行われた「R-1ぐらんぷり2002」大阪予選に出場し、約3年ぶりに公の場に姿を現した。

アルバイトのかたわら吉本興業から紹介された営業の仕事を月一度のペースで行うなどしながら借金を返済しつつ、2004年1月には「R-1ぐらんぷり2004」大阪予選に出場した。以降は公の場に姿を見せていなかったが、2008年1月桑名市での地方公演で久しぶりに新喜劇の舞台に復帰。以降も不定期ながら地方公演の舞台には出演し、2009年末には京橋花月での新喜劇にも出演するなど、再び活動が活発になり始めた。
10年ぶりにNGK新喜劇に復帰

京橋花月での復帰から数ヶ月後、2010年3月に行われた小籔千豊座長公演にて、本場NGK新喜劇に約10年ぶりに出演を果たした。公演名は『美女を見たら詐欺師と思え?』(毎日放送よしもと新喜劇」2010年4月11日放送分)である。

その舞台の様子の一部は2010年4月6日放送の『リンカーンSP』で、レギュラーのダウンタウンさまぁ?ず雨上がり決死隊キャイ?ンが出演を果たした際にも放映された。3月の舞台復帰はスポーツ紙でわずかに報道されたのみであったが、この放送で復帰した帯谷の映像が全国に放送された。

その後は高齢化が進む新喜劇の中で、元気なベテラン・重鎮クラスとして、NGKをはじめ、主に京都花月や地方公演で活動を続けている(今田耕司いわく、「この人は(生きざまが)凄いですよ。たまたま助かってるだけですからね」)。

2015年あたりから帯谷の人柄やエピソードがいくつかの番組で取り上げられるようになり、『楽屋ニュース2017』では若手や中堅に混じって生収録に参加しスタジオを沸かせた。

R-1ぐらんぷり2017」にはスーパーマラドーナの武智に、一万円でネタを書いてもらい出場。「R-1ぐらんぷり2018」では、「よしもと新喜劇クイズ」なるネタで予選会場トップクラスの笑いを獲り続け、順調に勝ち進んでいたが、準々決勝でハプニングのため敗退した(機材トラブル、スタッフのミス、帯谷が持ち時間を1分勘違いしていた、などの説がある)。


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