この記事の内容の信頼性について検証が求められています。
確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。議論はノートを参照してください。(2010年2月)
帯方郡
各種表記
ハングル:???
漢字:帶方郡
発音:たいほうぐん
テンプレートを表示
帯方郡(たいほう-ぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡である[1]。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の?、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。
帯方郡の歴史(朝鮮語版
後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた[2]。その後を継いだ嫡子・公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割いて帯方郡を分置した。その正確な時期は不明であるが早ければ建安9年(204年)頃かともされる。これにより南方の土着勢力韓・?族を討ち「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」[3]という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。
公孫康の死後、その子・公孫淵が幼いために公孫康の実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。しかし、太和2年(228年)成長した公孫康の子の公孫淵は叔父・公孫恭の位を奪い取り、魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し、最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、景初元年(237年)反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した。
翌年(238年)魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにあって公孫淵とその子・公孫脩は滅びる。これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。
泰始元年(265年)に魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて晋朝(西晋)を興すが、その新しい王朝の繁栄も長くは続かず、永康元年(300年)身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理志』)。 建興元年(313年)遼東を征服した高句麗が南下して楽浪郡を征服した。この以降から漢人については朝鮮半島の正史出てくることはなく、漢人は虐殺されたり、奴隷となった[4]。高句麗は楽浪と帯方郡を征服した。 高句麗が漢四郡と遼東を征服した後、遼東と楽浪、大方郡には漢族は断絶し、漢族式墓が発見されない。 その後、高句麗が征服した中国地域には朝鮮民族の子孫が広がることになる[4]。そして高句麗が現在の北京と天津地域である維州地域を征服し、朝鮮民族が遼東と幽州地域を運営することになる[4]。
帯方郡の滅亡