師管
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この項目では、日本軍の管轄区域について説明しています。植物の組織については「師部」をご覧ください。

師管(しかん)は、1873年から1945年まで、日本の陸軍が、軍政・軍の警備のために設けた地域区分である。日本の内地を分割して設けられた。軍管軍管区の下、旅管・連隊区大隊区の上にあたる。連隊旅団の管轄区だった初期を除き、師団に対応する管轄区域である。徴兵制が適用されない植民地の台湾・朝鮮には長く置かれなかったが、朝鮮にだけは、1941年に内地と性格が異なる師管が置かれた。朝鮮の師管は、軍管区の下、兵事区の上にあたる。1945年4月に師管区への改編により師管は廃止された。
概要

師管は鎮台制時代の1873年に、軍管の下に設けられた。この時期に師団は存在せず、師管は連隊(1885年から旅団)の管轄区であった。この時代の陸軍は国内反乱への対応を重視したので、軍管・師管は反乱勃発時に部隊が出動すべき警備分担という性格が強かった。

1888年に師団制にかわると、従来の軍管が新しい師管に引き継がれ、師管は師団の管轄区になった。従来の師管は大隊区(1896年以降は連隊区)に引き継がれた。この時代に師管の作戦上の意義は薄れ、行政、特に徴兵のための区分という性格が強くなった。師団が戦争で師管の外に出たときには、臨時に留守師団が置かれて徴兵・補充など師管内の業務を引き継いだ。

徴兵制施行後の陸軍の兵卒は、自分が徴兵された区に所在する部隊に属すのが原則であった。部隊の将校は全国から転任してくるが、兵卒は地元出身者からなる。区分単位は兵科によってことなり、歩兵は連隊区単位で一つの連隊に所属させ、その他の兵科は師管単位で一つの師団に所属させた[1]。しかし、徴兵率の地域間不均衡を作らないというもう一つの原則もあったので、人口が多い師管で徴兵された兵士を少ない師管の部隊に回して調整することもあった[2]。植民地の朝鮮に置かれた師団には、内地の師管で徴兵された兵士が送られた。また、戦時に臨時編成された師団がもとの編成地と異なる師管を割り当てられたり、師管の境界変更があったりしたときには、年度により兵卒の出身地が異なる期間が生じた。

個々の師管には、1941年まで、第1師管に第1師団、第2師管に第2師団というように、所在地の部隊番号と同じ番号が付けられたが、最初期には地名によって東京師管、仙台師管という言い方もあった[3]。1941年4月1日に番号をやめ、地名で呼ぶ方法に改めた[4]

日中戦争がはじまった1937年以降は師団の数が増え、1師管が複数師団を支えることが当たり前になった。また、国外に出る師団が多くなり、留守師団の存在が常態化した。1945年、第2次大戦の敗色が深まり、連合軍が本土に侵攻する可能性が高まると、国内の区分に作戦上の意味を持たせる必要が強まった。4月に師管に代えて設けたのが師管区で、特定の師団との結びつきを持たず、作戦部隊でない諸部隊を指揮下に入れた。この年のうちに日本は降伏し、陸軍が解体されたため、師管区もまた廃止になった。
鎮台制の師管(1873 - 1888)1875年の14師管。府県界は当時のもの。北海道と沖縄には師管がない。

1871年6月(明治4年4月)に設置された鎮台は、2、4、6としだいに数を増やした。管区が明確になったのは4鎮台になった同年10月(明治4年8月)だが、この時は兵力・区域ともに鎮台間の格差が大きく、全国斉一の制度とは言えなかった。

師管が設けられたのは、鎮台条例改定により6鎮台が設置された1873年(明治6年)1月である[5]。このとき鎮台の管轄が軍管、連隊の管轄が師管と定められた。その条文によれば、戦時に一師を興すに足るをもって師管と名付けたものである(第2条)。6つの軍管のうち東京の第1軍管と大阪の第4軍管が各3師管、第2、第3、第5、第6は各2師管を持つ(第1条)。北海道には鎮台が置かれず、師管もなかったが(第5条)、屯田兵設置の計画があった。他に天皇の護衛と位置づけられた近衛も師管を持たなかった。師管には番号が付けられたが、連隊所在地の地名で東京師管、佐倉師管などとも呼ばれた(第1条、第3条)。師管ごとに歩兵1個連隊が置かれ、管内の反乱鎮圧に備えた(第7条)。師管の管内には40か所の営所が置かれ、14の本営とあわせて全国54か所に駐屯した(第4条)。

鎮台制のもとで、多くの権限は軍管(鎮台)に置かれ、師管(連隊)の権限は多くなかった。特に、鎮台の所在地が置かれた師管では、管内に行使するすべての権限は鎮台の司令部が行使したので、所在地の連隊は作戦部隊として行動するのみであった。鎮台が所在しない師管では、連隊長が司令官として師管に対する権限を持った。1877年(明治10年)1月20日に師管営所官員条例が制定されて、その権限が細かく規定された[6]。司令官の最重要任務は管内の「草賊」、つまり国内反乱の鎮圧にあり(第1条)、不穏な情勢を偵察し(第5条)、政府中央や鎮台との連絡の猶予がない緊急時に地方官の要請で出動することができた(第6条)。

1885年(明治18年)5月の鎮台条例改正で、軍管を治める鎮台司令官が戦時に師団長となり、師管は旅団長が担任することになった(第1条)[7]。また、1軍管に一律に2師管が置かれることになり(第1条)、3師管をもっていた東京と大阪では、東京軍管の高崎、大阪軍管の大津師管が廃された。1師管には2個歩兵連隊が属したので、6軍管・師団、12師管・旅団、24個歩兵連隊で、以前と比べて10個連隊の増である[8]。師管すなわち旅団の番号は新たに振り直され、旧師管の番号は連隊に受け継がれた。屯田兵がいる北海道の第7軍管に師管がなく、近衛が師管を持たないのは、以前と同様である。この改正では、鎮台所在地以外にある師管の旅団長が営所司令官となり、鎮台司令官に準じて騒擾鎮圧等の任にあたることが定められた(第29条、30条)。


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