帝銀事件
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帝銀事件
事件発生直後の現場の様子
場所東京都豊島区長崎(現在の豊島区長崎1丁目)
標的帝国銀行
日付1948年昭和23年)1月26日
概要毒物殺人事件
死亡者12名
犯人平沢貞通とされている
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帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年昭和23年)1月26日東京都豊島区長崎帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年に統合閉鎖され、現存しない)に現れた男が、行員らを騙して12名を毒殺し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件。

画家の平沢貞通が逮捕され死刑判決を受けたが、平沢は獄中で無実を主張し続け、刑の執行がされないまま、1987年(昭和62年)に95歳で獄死した。

第二次世界大戦後の混乱期GHQの占領下で起きた事件であり、後述のように多くの謎が残るため、未解決事件とされることもある。
事件の概要
事件発生事件発生時の帝銀椎名町支店。動画は日本ニュース第108号で見ることができる。

1948年(昭和23年)1月26日(月曜日)午後3時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物青酸カリ説、青酸ニトリル説がある)を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人現金約16万4410円と、安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行板橋支店の金額1万7450円の小切手[1]を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できないばかりか、現場保存も出来なかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。捜査本部が捜査員に配布した「帝銀毒殺犯人捜査必携(昭和23年<1948年>6月 警視庁帝銀毒殺事件捜査本部)」。犯人のモンタージュ写真や小切手の筆跡、その他、犯人像の説明に「職歴・・・・・・医療防疫(含消毒)其の他薬品取扱に経験あり(軍の関係は特に)」云々とあり、捜査の主流が旧軍関係者犯人説であったことがわかる。

全員に飲ませることができるよう遅効性の薬品を使用した上で、手本として自分が最初に飲み、さらには「の琺瑯質[2]を痛めるからを出して飲むように」などと伝えて確実に嚥下させたり、第1薬と第2薬の2回に分けて飲ませたりと、巧みな手口を用いたことが生存者たちによって明らかにされた。男が自ら飲んだことで、行員らは男を信用した。また、当時の日本は、上下水道が未整備で伝染病が人々を恐れさせていた背景がある。16人全員がほぼ同時に第1薬を飲んだが、ウィスキーを飲んだときのような、胸が焼けるような感覚が襲った。約1分後、第二薬を男から渡され、苦しい思いをしていた16人は競うように飲んだ。行員の1人が「口をゆすぎたい」と申し出て、男は許可した。全員が台所の水場などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて気を失った。内の1人である女性行員のMが失神を繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚した。

近くの長崎神社前交番から巡査が駆けつけると、16人が倒れていた。(遺体は青い吐瀉物を成していた)。しばらくは犯罪だとわからず、近所の人々まで銀行内に入り、交番の巡査は目白の本署に「中毒事件」として一報を入れた。16人のうち10人はすでに絶命しており、6人がわずかに息のある状態だった。うち1名は現場で死亡した。生存者5名(男3名、女2名)は現場から近い聖母病院に収容されたが、間もなくうち男子1名も死亡した。最終的に死者12人、生存者4名(男2名、女2名)となった(佐々木2004[3], p.94)。

盗まれた金16万4410円と小切手1万7450円は、新円切り替えが行われた戦後の混乱期では、現在[いつ?]の貨幣価値に換算すると100倍ほどになる。1948年(昭和23年)当時の公務員の月給は35歳の家族2人暮らしで手取り5200円余り、女性事務員の月給は平均2000円だった。盗まれた18万円余りの金額は当時としては大金だった。(佐々木2004[3], p.124)

被害者16名(順番は第一審判決書による。原文では実名表記)
椎名町支店内での死亡者10名: W(男。当時43歳)、 N(男39歳)、 S(男29歳)、 A(女23歳)、U(女19歳)、 K(女16歳)、 T内(男49歳) 、T沢(女49歳)、T沢(女19歳)、 T沢(男8歳)国際聖母病院へ搬送後に死亡(ないし死亡確認)2名: S(男22歳)、T沢(男47歳)国際聖母病院へ搬送、重体(生存)4名: Y(男43歳)、 A(女19 歳)、T(男20歳)、 M(女22歳)「T沢」の4名は、用務員の夫婦とその娘・息子である。死者は上記の12名のほか、3ヶ月ほどの胎児が1人いた(中村2008[4]p.65)。死亡者の遺族たちは国の補償も民間の支援もなく、苦しい生活を送ることを余儀なくされた(#被害者家族のその後)。
未遂類似事件

裁判所の判決では以下の2つの未遂事件も、帝銀事件と同一犯のしわざと認定した。

安田銀行荏原支店1947年(昭和22年)10月14日火曜日、閉店直後の安田銀行荏原支店に、「厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局」という名刺を出した男性が訪ねてきて、「赤痢感染した患者が、午前中に預金に訪れていることが判明したので、銀行内の行員と金を消毒しなければならない」と言った。支店長は相手を待たせて、交番巡査を呼びにやって赤痢発生について聞くと、当の巡査は「まったく寝耳に水の話だがで確認する」と言って出て行った[5]。巡査が戻る間に、帝銀事件とまったく同じような手口で薬を飲ませるも、死者は出ず。名刺自体は本物だった。警察は犯人が松井と以前面会し、その際に名刺を受け取っていたと断定した。後にこの名刺が「帝銀事件」の捜査の有力な手掛りとなった。


三菱銀行中井支店1948年(昭和23年)1月19日月曜日、閉店直後の三菱銀行中井支店に男があらわれ、「厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課」という名刺を出し、同支店長に近所で集団赤痢が発生しその家の者がこの銀行に預金に来たから銀行を消毒する、と言い、支店長ほか15名全行員と、たまたまそこに来ていた高田馬場支店長に薬を飲ませようとした。が、高田馬場支店長が「私はこの銀行の者ではないし、ちょっと来合わせただけだから」と言って薬を飲むのを断りそうに見えたため、男は郵便小為替1枚に水をふりかけて消毒のまねをしただけで、出て行った。後に“山口技官”という人物は実在せず、この名刺は犯人が西銀座の露天の名刺屋で作らせたものであることが判明している。以上の経緯は第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第九部)による。

捜査
捜査本部帝銀事件の捜査陣の組織図(平沢貞通逮捕時)。藤田次郎刑事部長以下の捜査本部の主流は旧軍関係者による犯行説で、平沢貞通を追ったのは名刺班だけであった。捜査本部の様子は日本ニュース第109号「まだつからまぬ毒殺犯人」でも見られる。

帝銀事件は、容疑者の自白を「証拠の女王」とした旧刑事訴訟法のもとで捜査が行われた最後の事件の一つである[6]。当時は日本国憲法の施行からまもない過渡期、いわゆる応急措置法の時代で、警察と検察が何ごとも力をあわせて捜査を行った。帝銀事件の捜査本部は目白署に置かれ、毎日、捜査会議が目白署で行われた。検事(高木一)も毎日、地検から目白署の会議に行き、刑事の報告を聞いた(高木1981[7]、p.179)。
旧軍関係者を捜査

犯人は、帝国銀行椎名町支店の支店長代理Y(当時、支店長は病気で不在)に名刺を渡し、Yはそれを机の中に入れたが、事件後、その名刺は消えていた(出射1986[8], p.226)。Yの記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いに熟知した陸軍中野学校の関係者や旧陸軍731部隊関東軍防疫給水部本部)関係者を中心に捜査が行われていた。“9研”こと陸軍第9研究所(登戸研究所)に所属していた伴繁雄らから有力情報(毒物は遅効性の青酸ニトリル、遺体吐瀉物は青い液体になる。全員が一気に乾杯のように内服する方法は731部隊が集団殺戮する方法で採用していたもの)を入手して、事件発生から半年後の1948年(昭和23年)6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出た。陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、関係者の口は硬く、この線での捜査は行き詰まっていったが、静岡軍医病院にいた元731部隊軍医中佐 諏訪敬三郎(元大陸陸軍病院から発足した国立国府台病院初代医院長)が重要参考人として浮上するが、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられたという主張もあるが、真相は不明である(#GHQの影)。


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