帝国図書館
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旧帝国図書館(現?国際子ども図書館)

帝国図書館(ていこくとしょかん)は、第二次世界大戦以前の日本における唯一の国立図書館である。1872年設立の書籍館(しょじゃくかん、図書館の古称)を起源として[1]1897年に設置された[2]戦後1947年に国立図書館(こくりつとしょかん)と改称した上、1949年国立国会図書館に統合されて消滅し、蔵書は現在の国立国会図書館東京本館に受け継がれた。

帝国図書館は上野公園の丘に所在したことから、「上野図書館」(うえのとしょかん)の通称で長く親しまれた[1]。上野図書館に通った経験をもつ文豪や学者[注釈 1]は数知れず、近代日本文化の歴史に大きな足跡を残している。

その歴史ある建物は国立国会図書館支部上野図書館を経て、2000年(平成12年)に国立の児童書専門図書館である国立国会図書館国際子ども図書館として再生し、現在も国立の図書館として現役である。
沿革

帝国図書館は、明治5年8月1日1872年9月3日)に文部省によって設置された書籍館を前身とする[5]。前年に設立された文部省は博物館を近代的な国家に欠かせない文化施設と考え、設立後すぐに博物館を設置するが、同じく重要な施設として書籍館(図書館の当初の呼称)併設の必要が建白され[6]、博物館と同じ博物局の管轄として書籍館を湯島聖堂内に設置された博物館に併設した[7]。書籍館は東京で最初の近代的な公共図書館であるが、当時の閲覧は有料制であった。

しかし、翌1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会参加のためにつくられた太政官博覧会事務局に文部省博物局が併合されると書籍館も文部省の管轄を離れ、のちに浅草に移って浅草文庫と改称された[8]。一方、文部省は太政官に博物館と書籍館の必要性を説き、1875年(明治8年)になって博物館と書籍館を組織のみ文部省の所管に取り戻した。ところが書籍館の蔵書は文部省の所管には戻ってこなかったため、文部省は改めて省の所蔵する図書を譲渡し、同館は東京書籍館として再度湯島聖堂内に再発足することになった。

東京書籍館は蔵書は文部省から交付された約1万冊を基礎とし、日本で初めての納本図書館として全ての国内出版物を蔵書に受け入れた。閲覧は再発足時から無料となるが、西南戦争の影響による財政難から1877年(明治10年)に廃止が決定され、東京府に移管されて学務課が管轄する東京府書籍館となった。しかし、東京府も財政難で運営困難となり、1880年(明治8年)7月には文部省に再度復帰し、名称を東京図書館に変更[注釈 2]。東京図書館は1885年(明治18年)6月に東京教育博物館(国立科学博物館の前身)と合併して上野に移転した[7]「上野図書館」の通称はこのときに始まる。上野の東京図書館は同年10月に開館するが、無料制に伴う館内の混雑を調整する目的から有料制に戻された。1889年(明治22年)3月には東京図書館官制[10]公布により東京教育博物館から分離、独立の図書館となるが、財政・施設とも貧弱で、国立図書館というにはいまだ不十分であった。上野帝国図書館(1911年頃[11]

1890年(明治23年)、東京図書館の館長に就任した田中稲城は、欧米への図書館事情視察経験から東京図書館を本格的な国立図書館に発展させる必要を認識し、帝国図書館の設置をはたらきかけた[1]。その結果、1897年(明治30年)4月になって帝国図書館官制が公布され帝国図書館が設立、田中稲城が初代館長に就任した。帝国図書館は東京図書館の業務と蔵書を受け継ぎ拡充させ、1906年3月20日には上野公園内に現存する新館庁舎を竣工、移転し、開館式を挙行[12][13]

田中館長の尽力にもかかわらず帝国図書館の予算は館長の要望する額には及ばず、庁舎も当初計画のわずか4分の1の規模に留まったが[1]、納本制度による国内文献の受け入れや洋書の購入が努力され、研究書を多くそろえた研究図書館として、すぐれた蔵書コレクションが構築された。1921年からは文部省の図書館員教習所(図書館情報大学の前身)も館内に置かれるなど、文部省による図書館行政の拠点となって帝国図書館は戦前の日本の図書館界を主導していった[14]。この年、田中館長が文部省との対立から更迭され(11月29日)、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学教授松本喜一が就任した。松本は図書館における活動の経歴が無く、在任中には文部省の意向に忠実で図書館の国家・軍部への従属を進めたとする批判と司書に対する資格制度の導入などの人材育成や納本制度の改革など戦後の図書館システムの基礎を築いたとする功績の間において、今日もなおその評価が分かれている人物である。

1923年関東大震災では蔵書と庁舎に損傷を受けたが軽微で済み[15]太平洋戦争中は住宅街から離れた台地上にあったことから空襲の被害を免れて、大正から昭和初期の動乱を生き延びる。太平洋戦争中に貴重書の疎開などを行いながら、終戦まで帝国図書館の閉鎖や臨時閉館等を行わずに予定通りの開館を続けたのは松本の最大にして最後の功績であった。終戦直後の1945年11月13日に松本館長が在任のまま死去し、翌1946年5月13日に司書官岡田温が館長に就任する(最後の帝国図書館長)。

戦後の1947年12月、「帝国図書館」の名称は時代に適合しなくなったことから「国立図書館」と改称された。さらに翌1948年には米国議会図書館を模範として旧帝国議会両院の附属図書館を基礎とする国立国会図書館が設置されて新たな法定納本図書館となるが、この法律によって旧来の納本図書館である国立図書館はその機能を国立国会図書館に統合されることになり、同年5月岡田館長は国立国会図書館整理局長に転じた。その後、統合後の分館館長就任を前提に文部省社会教育局員の加藤宗厚(元・帝国図書館員)が館長に就任(1957年7月まで)、1949年4月になって国立図書館は国立国会図書館に統合され、国立国会図書館支部上野図書館となった。
歴代図書館長など

町田久成:1872年(明治5年)書籍館務兼理

辻新次:1875年(明治8年)東京書籍館御用掛・東京書籍館館長事務取扱

畠山義成:1875年(明治8年)書籍博物両館長兼勤

永井久一郎:1875年(明治8年)東京書籍館長補

二橋元長:1877年(明治10年)東京府書籍館掛、1879年(明治12年)東京府書籍館幹事

岡千仞:1879年(明治12年)東京府書籍館幹事

小林小太郎:1880年(明治13年)文部少書記官・東京図書館長兼務

鈴木良輔:1880年(明治13年)東京図書館長

平山太郎:1881年(明治14年)東京図書館長

箕作秋坪:1885年(明治18年)東京教育博物館長兼東京図書館長

手島精一:1886年(明治19年)東京教育博物館兼東京図書館主幹

末岡精一:1889年(明治22年)法科大学教授・東京図書館長兼任(田中稲城の親友)

田中稲城:1890年(明治23年)文科大学教授・東京図書館長兼任・帝国大学図書館管理、1893年(明治26年)東京図書館長専任、1897年(明治30年)帝国図書館長(初代)

松本喜一;1921年(大正10年)帝国図書館長事務取扱、1922年(大正11年)帝国図書館長(2代)

岡田温:1946年(昭和21年)帝国図書館長(3代)

加藤宗厚:1947年(昭和22年)国立図書館長[16]

中根粛治:書誌学者。明治39年まで東京図書館の司書を務める[17]

建築家

久留正道:1897(明治30)年4月に帝国図書館新築設計委員に任命され、技師として真水英夫を招く。


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