帝国クライス
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年10月)

帝国クライス(ていこくクライス、ドイツ語: Reichskreis)とは、神聖ローマ帝国16世紀に確立した統治システムである。帝国を複数の帝国等族[注釈 1]を包含した10のクライスに分け[注釈 2][注釈 3]、ラント平和(地域内の治安維持)にあたった。平和破壊活動(一揆、暴徒化した傭兵、諸侯の侵略行為など)の規模に応じ、隣接するクライスと共同でその平定にあたることもあった。

「クライス(Kreis)」という言葉は、現在も行政単位として用いられており、日本語では一般に「郡」と訳されている。ただし、本項での「クライス」はすべて帝国クライスを意味する。
概要

帝国クライスの治安維持活動により、弱小等族単独では対応が困難であった大規模な平和破壊活動に対処することが可能となり、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}徒(いたずら)な戦禍の拡大を防げるようになった。また、クライス会議を通じて地域行政の調整を行うことで、帝国の連邦的性格を決定付けた。

帝国クライス制度は、いわゆる「アウクスブルクの宗教和議」で名高い1555年アウクスブルク帝国議会で審議され、発令された帝国執行令で一応の完成を見た。

しかし、この制度は、帝国等族と皇帝の中間で機能するシステムであり、両者の力関係から、その位置付けは帝国執行令以前も以後も、時代と共に変遷している。

例えば、防衛は、創設時にはその管轄外であったが、帝国末期には防衛も担うようになった。特にフランスに隣接する地域では、ハプスブルク家の私兵と化した帝国軍に代わってクライス軍が帝国防衛の主戦力となった。
帝国クライス制度の成立
成立まで皇帝ヴェンツェル

いくつかの帝国等族を包含したブロックに帝国を分け、地域の治安維持に当たらせる発想は、皇帝ルドルフ1世の時代に遡る。1287年にルドルフは公共平和のために地域に基づき領邦をグループ化する試みを行っている。これは、大空位時代に政治的混乱から治安が悪化したことにより、自発的に生じた帝国等族間個別の盟約を帝国レベルで整備し直し、安定を図る試みであった。また、都市同盟を結び、帝国と独立した動きを示そうとした有力都市を牽制する意味もあった。

ヴェンツェル帝は、1383年に帝国平和盟約(ラントフリーデ)令を発令した。これは帝国を4つのパルタイ(党派)に分け、他からの攻撃に対して相互保護を行うという内容のものであった。しかしこの政策は、その背後に都市同盟解体の意図を察知した有力都市が参加しなかったため、実効性を持たないまま終息した。

その後、1388年に諸侯と都市同盟の対立が顕在化し、その直接対決の結果、都市同盟が力を弱めたため、ヴェンツェルは翌1389年に再度帝国ラントフリーデ令を発令した。今度は、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、中ラインの4つのアイヌンク(盟約)に分け、各アイヌンクは、諸侯4人、都市代表4人、国王が任命する長官1人からなる9人委員会を設け、裁判、刑の執行、治安維持のための援助要請を行うとした。しかし、多くの帝国等族にとってこのラントフリーデ令は都市同盟解体のための方便に過ぎず、その目的を達成した後は形骸化していった。皇帝ジギスムント

1415年、帝国改造を掲げた皇帝ジギスムントは、コンスタンツの帝国議会で、国王裁判権の強化を訴えた。それに伴い、帝国を4つのタイル(部分)、すなわち

ライン、アルザス、ヴェッテラウ

シュヴァーベン

フランケン

テューリンゲン、マイセン、ヘッセン

に分け、国王が派遣する指揮官がその平和維持、判決執行を行う政策を提案したが、諸侯の反発が強く実現はできなかった。

一方、1438年には逆に諸侯の側からクライスの提案があった。この案では、帝国を4つのクライス(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ライン、下ライン、ザクセン)に分け、有力諸侯の指揮下にある指揮官が平和維持および刑の執行を行うというものであった。この案に対して国王は、

クライスは6つ(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ラインをそれぞれ分離)にすること

指揮官の選出について諸侯の意見が不一致の場合は国王がこれを任命すること

指揮官は領主・騎士・都市からなる10人の参議官と共同で活動すること

という修正案を提出した。これらはクライスを管理する指揮官、ひいてはその上位に位置することになる有力諸侯の影響力を減じようという策で、帝国都市は総論賛成・各論反対の立場をとり、諸侯は強く反発したために、クライス案自体が不成立となった。
成立初期皇帝マクシミリアン1世

帝国運営に無関心であった皇帝フリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアン1世が新たに帝位に就き、帝国改造の機運が高まった。マクシミリアンが皇帝主導での帝国の秩序回復を目指したのに対し、マインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘンネベルクは、公共の秩序を維持するためには主要な諸侯が帝国の意思決定に継続的に参加する必要があると主張していた。

こうした皇帝と諸侯との間でラント平和の主導権争いが行われる中、1495年に「永久ラント平和令」がヴォルムスの帝国議会で決議された。その実務機関として、諸侯の影響下に置かれた司法組織である帝国最高法院が設けられた。また、1500年アウクスブルク帝国議会で、帝国等族の代表者が帝国の運営に参与する常設委員会として帝国統治院が設けられ、その参議官任命のための地理的区分として6つのクライス(フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーライン、ヴェストファーレン、ニーダーザクセン)が設定された。

しかし帝国統治院は皇帝の反対や有力諸侯の無関心から資金調達が困難となり、わずか2年後に解散し、帝国最高法院も有効に機能しなかった。1507年のコンスタンツ帝国議会では、帝国最高法院改革として、帝国台帳を作成して財政基盤を強化し、陪席判事選出の地域区分としてクライスを活用することが決議された。この時点では、クライスは選挙区としての役割しか持たず、行政上の効力は有していなかった。

しかし、マクシミリアンは、皇帝主導の治安維持構想を放棄したわけではなかった。1500年に選挙区として設けられたクライスに国王が任命する指揮官を配し、治安維持機能を持たせるという提案を1510年の帝国議会で行い、帝国等族の反対にあった。さらに、1512年の帝国議会では、国王の任命する指揮官の上位に帝国指揮官を置き、平和維持、刑の執行、防衛を行うこととする、という修正を加えた帝国クライス構想を再度提案した。帝国等族はこの提案に対して、

1500年の段階では例外とされているハプスブルク家の相続領および選帝侯領も加えて、クライスを10に増やす(加えられるクライスは、ブルグント、オーバーザクセン、クールライン、オーストリア)

指揮官は臨時職とし、必要に応じてクライスに属す帝国等族が任命する。帝国等族の意見が不一致の場合に限り国王がこれを任命すること

帝国指揮官は設けない

クライスの機能は平和維持と刑の執行とし、防衛はこれから除外する

という修正案を提示した。マクシミリアンもこれに合意し、治安維持機構としての帝国クライスが成立した。しかし、この時点の帝国クライス制度は、指揮官の職責や権限について明確な規定が設けられておらず、制度としては不十分なものであった。実際、1515年にフランツ・フォン・ジッキンゲンが帝国追放に処せられた際、該当クライスであるオーバーライン・クライスは、刑の執行に全く非協力的な態度に終始した。 フェーデの抑止力としても無力で、刑の執行、平和維持のいずれの機能も十分に果たしていない状態であった。
対オスマン帝国軍編成とミュンスター占拠事件皇帝カール5世ヘッセン方伯フィリップ1世

1519年に皇帝に即位したカール5世は、1521年に帝国統治院を復活させ、帝国最高法院に新たな法的基盤を与えた。そうした上で、翌1522年にラントフリーデ令(クライス令)を発し、帝国統治院の執行機関としてクライスを位置づけた。クライスの指揮官を臨時職から恒常職とし、平和破壊活動の現行犯に対しては帝国レベルでの裁判を待つことなくクライスレベルで処遇を決定することを可とするなど、クライスの権限は大幅に増強されたが、その本体となる帝国統治院は早くも1524年には活動を停止し、1530年に廃止された。


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