帝人事件(ていじんじけん)は、戦前の1934年(昭和9年)に起こった疑獄事件。齋藤内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。そのため、現在では倒閣を目的にしたでっち上げの可能性が極めて高いものと見なされている。 帝国人造絹絲株式会社(現:帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年(昭和2年)の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、文部大臣鳩山一郎や、「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 番町会は関東大震災の前頃に河合良成、岩倉具光、後藤圀彦が、懇意の郷誠之助男爵の番町の自宅を訪れ食事を共にする会として設立した[1][2]。 1934年(昭和9年)1月17日、『時事新報』(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事「番町会問題をあばく」を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。 議会で関連を追及された鳩山は「明鏡止水の心境」と述べ、これが辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任した。なお、同年3月に武藤の射殺事件が起きたが、本事件との関係は不明である。 政友会の代議士岡本一巳は1934年3月7日、東京憲兵隊に小山松吉司法大臣を始め東株取引員の沼間敏朗及び小林武次郎他2名に対し涜職の告発をした。小林が1928年に日本共産党三・一五事件のシンパとして検挙された際、当時検事総長であった小山法相らが待合遊びの饗応を受けて刑の軽減を図ったというもので、桂太郎の愛人で待合鯉住の女将お鯉こと安藤照女が自ら証人に立つなどし、謎の事件として注目された。しかし、取り調べの結果、人違いによる無実の告発とされ、もって岡本は誣告と偽証教唆罪 その後、帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。これにより政府批判が高まり、同年7月3日に斎藤内閣は総辞職した。 起訴された人物は次のとおり。
経緯
お鯉事件
起訴・斎藤内閣総辞職
島田茂(台湾銀行頭取) - 背任・涜職容疑
永野護(山叶証券取締役・帝人取締役) - 背任・涜職容疑
高木復亨
柳田直吉
越藤恒吉(台湾銀行整備課長) - 背任・涜職容疑
岡崎旭(帝人常務) - 背任・涜職容疑
長崎英造(旭石油社長) - 背任・涜職容疑
小林中(富国徴兵保険支配人) - 背任・涜職容疑
河合良成(日華生命専務・帝人監査役) - 背任容疑
黒田英雄(大蔵次官) - 涜職容疑
大久保偵次(大蔵省銀行局長) - 涜職容疑
大野龍太(大蔵省特別銀行課長) - 涜職容疑
相田岩夫(大蔵省銀行検査官・台湾銀行管理官) - 涜職容疑
志戸本次朗(大蔵省銀行検査官補) - 涜職容疑
中島久万吉(商工大臣) - 涜職容疑
三土忠造(鉄道大臣) - 偽証容疑
なお、事件の逮捕者の勾留期間は200日に及んだが、商行為の株売買があるだけで、賄賂に使われたといわれる帝人株1300株は事件が起きる前の1933年(昭和8年)6月19日以来、富国徴兵保険会社の地下の大金庫の中に入ったままになっているなど犯罪の痕跡がどこにもなかった。 裁判は1935年(昭和10年)6月22日に東京刑事地方裁判所にて開廷(裁判長は藤井五一郎)、16人の被告はいずれも罪状を否認した[4]。
無罪判決