帆足長秋
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帆足 長秋(ほあし ながあき[1] / - ちょうしゅう、宝暦7年12月8日1758年1月17日) - 文政5年1月14日1822年2月5日))は、肥後国山鹿郡三玉村久原の神職にして本居宣長門下の国学者従五位[2][3]

遠祖は豊後の帆足氏という[4]清原[5]真人は徳甫[5]。少時の字は式部で、のち豊後守、天明2年に下総守と改めた[6]。また、は初め政秀、安永10年前後より惟香と改めたが阿蘇氏に同名がいたため長秋とした[6]には抱月、徇精、錦渓主人などがあり、屋号は考槃洞または抱月館[6]

神職を勤める傍ら日本の古典を志して国学の大家・本居宣長の門人となり、熊本藩に宣長の学問を伝えて郷里における国学の礎を築いた[1]伊勢松坂の宣長宅を生涯に4度訪れて遊学[1]、学んだ書の多くを書き写して郷里に持ち帰り、特に才媛で知られた娘の助力を得て完成させた『古事記伝』(本居宣長著)全44巻の写本は著名にして熊本県の文化財に指定されている[1]。写本を自らの楽しみとし、生涯に手写ししたその総数は一千巻余りと称する[7]。著書には『勧学譚』6巻、『脱譚』3巻、『詩集』1巻、『盈嚢集』1巻などがある[7]
来歴

天延元年(973年)、豊後に流された少納言清原正高は玖珠郡長野で過ごしたのち赦免されて京都に戻ったが、その長男である正道は玖珠に留まって助道をもうけ、この助道が玖珠(現玖珠町)の古後・帆足の二領地を貰い受けて長野氏を名乗る[5]。これが帆足氏の祖となり、のち子孫繁栄して豊後の名族となった[6]。正道の末裔に是雄、その9代孫に政常がおり、政常の子政行は政行摂津と称して一男一女を授かった[6]。この男子が帆足長秋である[6]。言い伝えによれば、先祖が肥後国に移ってから帆足長秋まで25代を数えるという[6]。生家は祖父政常の代より肥後国山鹿郡三玉村久原(現・熊本県山鹿市久原)に鎮座する天目一神社(あめのまひとつじんじゃ、薄野一ツ目神社とも)および三玉村霊仙(りょうぜん)の二宮神社両社神職をつとめた[4][8]

明和9年(1772年)の春、16歳で母を亡くした長秋はその年の秋より近郷の師の下で学び始めた[6]。幼少の頃より学問に対する志は高かったが、家が貧しかったため一冊の書を買うこともままならず、人から借りてはそれを写していたという[6]。惟馨と名乗り出した24、5歳の頃からは、更なる向学のため守山八幡宮の守山河内守廣豊に従って橘家神道を学んだ[6]

天明6年(1786年)4月27日、長秋(30歳)は三度目の伊勢神宮参宮の途次[9]、当時すでに古学者として活溌な活動を展開していた伊勢松坂の本居宣長の自宅(「鈴屋(すずのや)」と称す)を訪ねて著述を読み、『直毘霊』(なおびのみたま)を筆写させてもらった[6][10]


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