布政使司
[Wikipedia|▼Menu]

承宣布政使司(しょうせんふせいしし)は、中国清代に存在した地方広域行政機関。または、その施政下の地域のこと。

明朝の承宣布政使司は現代中国のに相当する広域行政区であり、主官である承宣布政使司布政使の管轄地域で、略称は布政使司、布政司、藩司。俗称は「行省」または「省」。管轄地域の民事を担当した。布政使司には左と右の承宣布政使司布政使がそれぞれ一人ずつ置かれ、これが行政長官に相当する。なお、省の治安と軍事は、それぞれ提刑按察使司と都指揮使司が管轄した。都司、布政司、按察司をあわせて「都布按三司」と呼ばれ、省内の最高行政機関だった。都布按三司の職権は相当程度、元朝行中書省と一致する。ただし、行中書省は中央の軍事行動を出先で支える軍政機関として作られていたので、その点は異なる。三司の品級は都指揮使司がもっとも高く、長は正二品。布政司がそれに次ぎ、左右の布政使はいずれも従二品。提刑按察使司の長官である提刑按察使は正三品。

清は明制を踏襲して、各地の承宣布政使司は維持したが、布政使1名だけを置き、布政使の上に固定制の総督巡撫を置いて省全体の軍民を掌握した。布政使は巡撫の属官となり、一省あるいは数の民政、財政、田土、戸籍、銭穀、役人考査、督撫と各府県との意思疎通などに専従した。乾隆年間以後、省は承宣布政使司の非公式の呼称として政府から認められるようになった。民国時代に布政司制度を廃止して省を設置し、中国史上初となる「省」を正式名称とする行政区画が誕生した。

ベトナム後黎朝は明にならって「承宣」を設け、その長官は「承政」としたので、「承政司」とも言った。のちの阮朝は清にならって「省」を設け、長官は巡撫、総督、布政使とした。
歴史
明の布政使司

承宣布政使司の前身は元朝の行中書省だった。の官吏は職分「行・守・摂」を兼ねることがあった。「行」は本職より下位による兼職を指す。元代の軍事統帥は中書省宰相を兼領するのに対し、通常の軍事統帥者は親王または国王であるため、「行」中書省と呼ばれる。至正16年(1356年)に朱元璋集慶路を陥した後、韓林児によって「呉国公」を授けられた。朱元璋は呉国公兼領江南等処行中書省となった。龍鳳4年(1358年)、?州に中書分省を設けた。以後、地方を攻略する度に、すぐに行省を設けた。

明初は元制を踏襲して、中書省は京城周辺の地域を、行中書省は全国各地を管轄した。洪武9年(1376年)、胡惟庸の獄の影響により、中書省と行中書省を廃止。浙江、江西、福建、北平、広西、四川、山東、広東、河南、陝西、湖広、山西の行省は承宣布政使司となった。行中書省の主官である行省平章政事と左・右丞は廃止された。行省参知政事は布政使と改められ、待遇は正二品。左右の参政は従二品。行省の左右の司は経歴司となった。行中書省のもともとの職権はこのときに三分割され、布政使司は民政事務の専従となった。承宣布政使の意味は「朝廷有徳澤、禁令、承流宣播、以下於有司」[1]で、略称は布政使司、布政司。俗称あるいは通称は「行省」、「省」。ここから承宣布政使司は行省のかわりに地方の一級行政区画の名称となった。南京応天府付近は承宣布政使司を設けず、中書省の直轄となった。

洪武13年(1380年)、胡惟庸の獄の後、中書省は廃止され、京師(直隷)と全国の十二承宣布政使司は六部に直属することになった。布政使は従三品、参政は従四品に改められた。洪武14年(1381年)には左右の参議を増設して正四品とした。また、布政使を1名増員して、各布政使司には左と右の二人の布政使が置かれるようになった。洪武15年(1382年)に雲南布政司を設けた。洪武22年(1389年)に布政使を従二品と定めた。建文年間に布政使を正二品に格上げして各1人に減らしたが、永楽帝は旧制に復帰させた[2]永楽元年(1403年)に北平承宣布政使司を「行在」に昇格させ、布政使司を廃止した。永楽5年(1407年)に交趾布政司を設け、永楽11年(1413年)を貴州布政司(布政使は1名のみ配置)を設けた。宣徳3年(1428年)に交趾布政司を廃止した。これで全国は北直隷、南直隷を除いて十三省と定まり、「両京十三省」と俗称された。

宣徳年間から臨時任制で軍事的性格のある総督や巡撫が登場したが、特別な許可がなければ監理食糧や監理刑名について布政使や按察使の職権に干渉してはならなかった。明の初めから正統年間にかけて布政使司の地位は六部と同等であり、中央で尚書や侍郎や副都御史に任ぜられることがしばしばあった。景泰年間のあとは布政司の地位は下がり、六部を授官することもなくなった。

明の布政使司の主官は左右の布政使で、その下に以下のような官職があった:

布政使司左右参政(定員数不定)、従三品。

布政使司左右参議(定員数不定)、従四品。

参政と参議は諸道を分掌した:督糧道、督冊道、分守道。


経歴司

経歴一人、従六品。

都事一人、従七品。


照磨所

照磨一人、従八品。

検校一人、正九品。


理問所

理問一人、従六品。

副理問一人、従七品。

提控案牘一人。


司獄司司獄一人、従九品。

庫大使一人、従九品、副使一人。

倉大使一人、従九品、副使一人。

雑造局、軍器局、宝泉局、織染局大使各一人、従九品、副使各一人。

清の布政使司

清朝は成立直後は明制を踏襲した。順治三年(1646年)、各省には依然として左右の布政使を置き、貴州省は右の布政使を置かず、南直隷部院侍郎を廃止して江南左布政使と江南右布政使を置いた。順治十八年(1661年)に江南分省を実施して、左布政使は江寧、右は蘇州に移駐した。

康熙二年(1663年)に陝西分省を実施。陝西右布政使は鞏昌に移駐して甘粛を治めた。康熙七年(1668年)に湖広分省して、湖広右布政使は長沙に移駐して湖南を治めた。康熙六年(1667年)に江南右布政使を江蘇布政使とし、左布政使は安徽布政使とした。陝西左布政使は西安布政使、右布政使は鞏昌布政使とした。湖広左布政使は湖北布政使、右布政使は湖南布政使とした。同時に、布政使が2人いる場合は1人にするように制度改革を行った(山東、山西、河南、江蘇、安徽、江西、福建、浙江、湖北、湖南、四川、広東、広西、雲南、貴州)。左右の違いはなく、従二品。陝西仍為両人、称為「守道」。康熙八年(1669年)、直隷省を設け、口北道度支使兼山西布政使とした。西安布政使は陝西布政使に改められ、鞏昌布政使は蘭州に移駐し甘粛布政使になった。

雍正二年(1724年)直隷守道は直隷に改められた。乾隆十八年(1753年)から各省の布政使だけを残し、領下の守道は布政使、参政、参議の肩書を兼ねることをやめた。乾隆二十五年(1860年)安徽省の布政使は安慶市に帰駐し、江蘇布政使は江寧と蘇州に分けられた。乾隆二十六年(1861年)二月には江寧駐在を江南江淮揚徐海通等処承宣布政使司、蘇州駐在は江南蘇松常鎮太等処承宣布政使司である。

清は元・明の習慣を踏襲して布政司を省・行省と俗称した。しかし、総督や巡撫が地方権力を掌握し始め、布政司の地位はその次に後退したことで、「省」の意味が変わり、布政司ではなく巡撫を基準とするようになった。清朝中葉までは19布政使司があったので、「十八行省」または「内地十八省」(江蘇省には両布政司がいたため)と俗称された[3]。清はこの問題に気づいたので、「省」や「行省」を避けて「統部」と呼称されていることもあるが、「省」という言葉が一番よく使われている。

光緒十年(1884年)、甘粛新疆省を建省し、甘粛新疆布政使を増設し、迪化府に駐在した。光緒十三年(1887年)、福建台湾省を増設し、福建台湾布政使は台北府に駐在した。宣統二年(1910年)、各省布政使司を改めて財政公所を設け、その主官は布政使としたものの、経歴以下の各官職は廃止された。

清の布政使司の主官は左右布政使(康熙六年に一人削減された)で、その下には:

布政使司左右参政、従三品(常設ではない)

布政使司左右参議、従三品(常設ではない)

経歴司経歴一人、正六品(江寧、蘇州、湖南、甘粛には置かず)

都事一人、従七品(福建、河南各一人)

照磨所

照磨一人、従八品(浙江、福建、四川、山西、甘粛各一人)

検校一人、正九品(雍正二年裁)


理問所理問一人、従六品。副理問一人、従七品(康熙三十八年裁)

庫大使一人、正八品

倉大使一人、従九品

宝源局大使一人、正九品(康熙三十八年裁)

明朝布政使司
十三布政使司
山東布政使司


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef