市川莚十郎
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いちかわ えんじゅうろう
市川 莚十郎
本名生田 宮吉(いくた みやきち)
別名義市川 左伊次(いちかわ さいじ)
市川 左い次
市川 榮升(いちかわ えいしょう)
生年月日 (1869-12-10)
1869年12月10日
没年月日 (1943-03-02) 1943年3月2日(73歳没)
出生地 日本 武蔵国(後の東京府浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区
身長160.6cm
職業歌舞伎役者俳優
ジャンル歌舞伎旧劇劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間1877年 - 1943年
配偶者有
著名な家族歌川芳春(実父)
主な作品
『日蓮上人一代記』
『新朝顔日記』
壺坂霊験記
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市川 莚十郎(いちかわ えんじゅうろう、旧暦 明治元年12月10日[1] / グレゴリオ暦 1869年1月22日[2] - 1943年3月2日[3])は、日本歌舞伎役者俳優である[1][4][5][6][7][8]。本名は生田 宮吉(いくた みやきち)[1][3][4][6][7][8]。幼名及び旧芸名は市川 左伊次(いちかわ さいじ、市川 左い次とも[3][1][4][6][7][8]、市川 榮升(いちかわ えいしょう)[1][3][4][6][7][8]。映画草創期に主演俳優として活躍した一人であり、5代目澤村四郎五郎との名コンビとして知られる[1][4][6]
来歴・人物

1869年1月22日旧暦 明治元年12月10日)、武蔵国(後の東京府東京市浅草馬道3丁目、現在の東京都台東区)に生まれる、とされている[1][4][5][7][8]。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)には、生年月日は「明治三年十二月十日」(グレゴリオ暦 1871年1月30日)、生地は東京市浅草区馬道町1丁目(現在の台東区浅草1丁目)である旨が記されている[6]。また、1919年(大正8年)に発行された『役者の素顔』(玄文社)によると、生年月日・出生地は上記の通りだが、父は浮世絵師の一梅齋芳春(後の歌川芳春、1828年 - 1888年)であるという旨が記されている[5]

1877年(明治10年)、8歳で歌舞伎役者初代市川左團次(1842年 - 1904年)の門に入り、1878年(明治11年)、市川左伊次と名乗り9代目市川團十郎(1838年 - 1903年)の義賊である暁星五郎の狂言に小按摩役で初舞台、とされている[1][4][5][7]。『現代俳優名鑑』などによれば、1874年(明治7年)、満6歳の時に初代市川左團次の門に入り、新富座で初舞台を踏み、高島屋の門人において市川左伊次(市川左い次[3])と名乗ったという旨が記されている[6][3]。以後も師匠左團次と行を共にし、三州豊橋朝倉座、本郷座市村座明治座などの舞台で大役を務める[1][4][7][6]。1904年(明治37年)、市川榮升と改め、師匠左團次の手を離れて独立、自ら一座を組織して横浜賑座で旗上げし、1910年(明治43年)頃まで地方巡業を継続した[1][4][7][3]。『役者の素顔』によれば、1902年(明治35年)12月に市川榮升と改めたとしている[5]。また上京してからは、演技座、寿座、本郷座、東京座三崎座などの中小劇場に出演し、請われて横浜喜楽座に2年ほど座頭として奮闘する[1][4]。『現代俳優名鑑』によれば、横浜喜楽座、賑座の2座のみで5年間出勤したとある[6]。その後、1904年(明治37年)に初代左團次が死去し、2代目市川莚升が2代目市川左團次(1880年 - 1940年)を襲名して外遊中は明治座、新宿座に勤めて主家の留守を守り、左團次が帰国してから市川莚十郎と改名、とされている[1][4][7]。『現代俳優名鑑』などでは、左團次と共に本郷座の舞台に立ち、1912年(明治45年)に同座で市川莚十郎と改名したとある[6][3]。また『役者の素顔』によれば、1914年(大正3年)9月に本郷座で市川莚十郎と改名したという旨が記されている[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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