「市川伸一」、「市川眞一」、あるいは「市川慎一」とは別人です。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}
いちかわ しんいち
市川 森一
生年月日 (1941-04-17) 1941年4月17日
没年月日 (2011-12-10) 2011年12月10日(70歳没)
出生地 日本・長崎県
ジャンル脚本家、劇作家、コメンテーター
活動期間1966年 - 2011年
主な作品
『ウルトラセブン』
『帰ってきたウルトラマン』
『シルバー仮面』
『ウルトラマンA』
『傷だらけの天使』
『黄金の日日』
『淋しいのはお前だけじゃない』
『モモ子シリーズ』
『風の盆から』
受賞
日本アカデミー賞
最優秀脚本賞
1988年『異人たちとの夏』
優秀脚本賞
2000年『長崎ぶらぶら節』
その他の賞
テンプレートを表示
市川 森一(いちかわ しんいち、1941年(昭和16年)4月17日[1] - 2011年(平成23年)12月10日[1][2])は、日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター。日本放送作家協会の会長を務めた[2]。長崎県諫早市出身[1][2]。
妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子[1][3]。妹は放送作家の市川愉味子(井上愉味子)[4][5]。実質的なデビュー作は円谷プロ製作『快獣ブースカ』。代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『コメットさん』『露玉の首飾り』『TAJOMARU』など多数。 実家の呉服屋を継がずに旧海軍大村航空隊の教官となった父と、寛政5年(1793年)創業の老舗の諫早名物おこし屋の娘であった母との間に1941年(昭和16年)誕生[6]。小さいころから創作活動が好きで、物語や絵画などジャンルを問わずに様々な創作を行って、級友を楽しませたり、地元の新聞に取り上げられたりしていた[6]。母親の実家の近所にあった映画館(後の諫早パルファン)によく映画を観に行っており、のちに脚本家を目指すきっかけともなっている[6]。ミッションスクールであった鎮西学院中等部に進学したが、高校は普通校の公立高校長崎県立諫早高等学校に進学、そののち[7]、日本大学藝術学部映画学科シナリオコース卒業[1][8][9]。 1966年(昭和41年)に円谷プロダクション製作の子供向け特撮番組『快獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」で脚本家デビューする[1][8][9]。その後しばらくの間は、子供番組を中心に執筆していた。『ウルトラセブン』『コメットさん』などは、この時期の代表作である。その後、当初メインライターを務めた『ウルトラマンA』を最後に一般向け番組に軸足を移し[1]、1974年、萩原健一、水谷豊出演のテレビドラマ『傷だらけの天使』(日本テレビ)で脚光を浴び、人気シナリオライターとなる[1][9]。 1979年(昭和54年)、舞台『黄金の日日』の戯曲により大谷竹次郎賞受賞。1981年(昭和56年)、『港町純情シネマ』などにより芸術選奨新人賞受賞[1]。1983年(昭和58年)、『淋しいのはお前だけじゃない』により第1回向田邦子賞受賞[1]。1989年(平成元年)、『異人たちとの夏』により日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞[1]。同年、『明日 - 1945年8月8日・長崎』『もどり橋』『伝言』により芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年(平成11年)、『幽婚』によりモンテカルロ・テレビ祭最優秀脚本賞受賞。2003年(平成15年)に紫綬褒章受章。 脚本家としての活動のみならず、『ザ・ワイド』などワイドショー番組にコメンテーターとして出演するなど幅広く活動した[1]。なかでも長らく「日本アカデミー賞授賞式」のテレビ中継内では予想屋として出演。ことごとく外れる予想で知られた。 2000年(平成12年)、日本放送作家協会理事に就任[1]。2003年(平成15年)からは、日本脚本アーカイブズの発足に尽力した[1]。後に日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムとして実現した。 2011年(平成23年)には旭日小綬章を受章[10]。その受章の際、内閣からの公式発表前にマスコミ各社が事前に行う記者取材が10月27日に予定されていたが、その日に急な発熱を起こして入院し、その際に受けた検査で肺がんが発見され、闘病生活に入っていたという[11]。 2011年(平成23年)12月10日、肺がんのため死去[2]。70歳没。戒名は祇承院弘庸森叡居士。14歳の時に日本基督教団諫早教会でキリスト教の洗礼を受けていた[12][13]が、本人の生前の希望により一族の菩提寺に埋葬された[14]。死後に故郷・長崎への思いを込めた市川の遺稿が妻により発表された[11]。 死後、福地茂雄を理事長として2012年10月25日に一般財団法人市川森一脚本賞財団が設立され、新進脚本家を対象とした「市川森一脚本賞
来歴・人物
諫早市立諫早図書館には市川の書籍、資料等を集めた「市川森一シナリオルーム」が存在する。
エピソード
キリスト教の信仰を持つに至ったのは、10歳で亡くした実母の入院先が長崎市内のカトリック系の病院だったことが契機とされている[18]。
プロテスタント信者であり、洗礼を受けたのは日本基督教団諫早教会であった[19]。
キリスト教による影響が随所に見受けられ、ウルトラシリーズの脚本では、新約聖書や神話に由来する名前を持つ怪獣や設定を多用したことでも知られる(サイモン、ペテロ、バラバ、ゴルゴダの丘→ゴルゴダ星、アイスキュロス→アイロス星人、マナ→フルハシ・マナ、プロメテウス→プロテ星人、サロメ→サロメ星人など)[18]。
修行時代、はかま満緒主宰「はかまお笑い塾」では、萩本欽一や車だん吉、ポール牧ら多くの芸人、脚本家としのぎを削りあった。後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)のこれらのエピソードを描いている。
『快獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」は円谷英二がかねてから「竹取物語」の映像化を懸案しているのを知った市川が、かぐや姫の物語をイメージソースに仕立てた作品である。
1960-1970年代に『コメットさん』『恐怖劇場アンバランス』『帰ってきたウルトラマン』など多くの作品で組んだ山際永三監督を「僕が唯一人、ドラマの師匠と仰ぐ方」と語っている[20]。
『仮面ライダー』では上原正三、伊上勝らと共に企画段階から参加していたが、『帰ってきたウルトラマン』参加のため市川、上原の2人は共に仮面ライダーからは離脱した[1]。しかし代理として紹介した島田真之の脚本が芳しくなかったため、第4話のみ島田と共作で執筆した[1]。
子供番組で唯一メインライターに任命された『ウルトラマンA』を、1クール消化の時点で降板してしまうが、その理由として「男女の性を超越した神としてのウルトラマン像」、「観念的な悪意の具象化であるヤプール」、「徹底したSF路線の追及」といった、企画段階で市川が提示した要素が全て排除されてしまい、ウルトラシリーズに対する情熱を急速に失ってしまったが故に、と発言している。しかし、同作品の橋本洋二プロデューサーに「メインライターの責任として最終回も書け」と命じられ、番組終了間際に復帰。最終回のラストでエースが発した「最後の願い」は、市川的には方向性の合わない作品へと変貌したウルトラシリーズへの「捨て台詞」のつもりで書いたものだったという。しかし、後年になって周囲から「最後の願い」に纏わる感想を聞く機会が随分増えたと語っている[21]。
『シルバー仮面』第23話「東京を砂漠にしろ!!」に登場するフンドー星人は、あさま山荘事件の生中継を見て警察が使用した鉄球から着想を得た[22]。