市川森一
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いちかわ しんいち
市川 森一
生年月日 (1941-04-17) 1941年4月17日
没年月日 (2011-12-10) 2011年12月10日(70歳没)
出生地 日本長崎県
ジャンル脚本家劇作家コメンテーター
活動期間1966年 - 2011年
主な作品
ウルトラセブン
帰ってきたウルトラマン
シルバー仮面
ウルトラマンA
傷だらけの天使
黄金の日日
淋しいのはお前だけじゃない
モモ子シリーズ
『風の盆から』

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀脚本賞
1988年異人たちとの夏
優秀脚本賞
2000年長崎ぶらぶら節
その他の賞

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市川 森一(いちかわ しんいち、1941年(昭和16年)4月17日[1] - 2011年(平成23年)12月10日[1][2])は、日本脚本家劇作家小説家コメンテーター日本放送作家協会の会長を務めた[2]長崎県諫早市出身[1][2]

妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子[1][3]。妹は放送作家の市川愉味子(井上愉味子)[4][5]。実質的なデビュー作は円谷プロ製作『快獣ブースカ』。代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『コメットさん』『露玉の首飾り』『TAJOMARU』など多数。
来歴・人物

実家の呉服屋を継がずに旧海軍大村航空隊の教官となった父と、寛政5年(1793年)創業の老舗の諫早名物おこし屋の娘であった母との間に1941年(昭和16年)誕生[6]。小さいころから創作活動が好きで、物語や絵画などジャンルを問わずに様々な創作を行って、級友を楽しませたり、地元の新聞に取り上げられたりしていた[6]。母親の実家の近所にあった映画館(後の諫早パルファン)によく映画を観に行っており、のちに脚本家を目指すきっかけともなっている[6]ミッションスクールであった鎮西学院中等部に進学したが、高校は普通校の公立高校長崎県立諫早高等学校に進学、そののち[7]日本大学藝術学部映画学科シナリオコース卒業[1][8][9]

1966年(昭和41年)に円谷プロダクション製作の子供向け特撮番組『快獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」で脚本家デビューする[1][8][9]。その後しばらくの間は、子供番組を中心に執筆していた。『ウルトラセブン』『コメットさん』などは、この時期の代表作である。その後、当初メインライターを務めた『ウルトラマンA』を最後に一般向け番組に軸足を移し[1]、1974年、萩原健一、水谷豊出演のテレビドラマ『傷だらけの天使』(日本テレビ)で脚光を浴び、人気シナリオライターとなる[1][9]

1979年(昭和54年)、舞台『黄金の日日』の戯曲により大谷竹次郎賞受賞。1981年(昭和56年)、『港町純情シネマ』などにより芸術選奨新人賞受賞[1]1983年(昭和58年)、『淋しいのはお前だけじゃない』により第1回向田邦子賞受賞[1]1989年(平成元年)、『異人たちとの夏』により日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞[1]。同年、『明日 - 1945年8月8日・長崎』『もどり橋』『伝言』により芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年(平成11年)、『幽婚』によりモンテカルロ・テレビ祭最優秀脚本賞受賞。2003年(平成15年)に紫綬褒章受章。

脚本家としての活動のみならず、『ザ・ワイド』などワイドショー番組にコメンテーターとして出演するなど幅広く活動した[1]。なかでも長らく「日本アカデミー賞授賞式」のテレビ中継内では予想屋として出演。ことごとく外れる予想で知られた。

2000年(平成12年)、日本放送作家協会理事に就任[1]2003年(平成15年)からは、日本脚本アーカイブズの発足に尽力した[1]。後に日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムとして実現した。

2011年(平成23年)には旭日小綬章を受章[10]。その受章の際、内閣からの公式発表前にマスコミ各社が事前に行う記者取材が10月27日に予定されていたが、その日に急な発熱を起こして入院し、その際に受けた検査で肺がんが発見され、闘病生活に入っていたという[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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