いちかわ こん
市川 崑
『サンケイグラフ』1955年4月10日号より
本名市川 儀一
別名義大川新之助(録音技師・大橋鉄矢との共同筆名)、市川秋六、市川根作、久里子亭
生年月日 (1915-11-20) 1915年11月20日
没年月日 (2008-02-13) 2008年2月13日(92歳没)
出生地 日本・三重県宇治山田市
死没地 日本・東京都
職業映画監督
ジャンル映画、テレビドラマ
活動期間1936年 - 2008年
配偶者和田夏十(脚本家)
主な作品
『ビルマの竪琴』(1956年)
『炎上』(1958年)
『野火』(1959年)
『おとうと』(1960年)
『東京オリンピック』(1964年)
『犬神家の一族』(1976年)
『細雪』(1983年)
受賞
カンヌ国際映画祭
審査員賞
1960年『鍵』
ヴェネツィア国際映画祭
サン・ジョルジョ賞
1956年『ビルマの竪琴』
ベルリン国際映画祭
功労賞
市川 崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一[1]、1915年(大正4年)11月20日[1] - 2008年(平成20年)2月13日)は、日本の映画監督。
娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。主な監督映画に『ビルマの竪琴』『炎上』『おとうと』『鍵』『東京オリンピック』『股旅』の他、『犬神家の一族』を始めとする金田一耕助シリーズなどがあり、主なテレビドラマの演出作品に『木枯し紋次郎』がある。 1915年(大正4年)11月20日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれる[1]。呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれたが、父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳から次女の嫁ぎ先である大阪市西区九条に母親と共に移り、母と次女、次女の娘と一緒に幼少生活を送る。家庭環境は良好だったが、次女の夫は大阪商船の機関長で遠洋航海に出ることが多く、家に不在の時期も多かった。また、母親が48歳の時に生まれ、唯一の男子であったため甘やかされて育ったという。九条第一尋常高等小学校(現・大阪市立九条東小学校)に進学したが、母親が京都に移り住むことになり、朱雀第一尋常高等小学校(現・京都市立朱雀第一小学校)に転校した。在学中に脊椎カリエスの発症疑いと診断されて、三女の嫁ぎ先がある長野県更級郡篠ノ井町に母親と共に転地療養する。しかし、半年で完治したため再び大阪に戻り、大阪市立市岡商業学校に進学[1]。その後、三女の姉の再婚先である広島市の家に母親が同居するのに合わせて、市川も広島へ移り住む。広島在籍時、1944年(昭和19年)に一度目の召集令状が来て、東京の仕事先である砧撮影所から餞別を貰って広島の連隊に向かうが、身体検査で脊椎カリエスを申告したため、即日帰郷の扱いを受ける。翌年の1945年(昭和20年)4月に二度目の召集令状が来て、同じ広島の連隊で身体検査を受けたが、盲腸の不具合を感じて軍医に申告した所、「手術をするなら軍の病院でもやるし、お前の知っている町の病院でもいいし、どうする?」と質問され、「かかりつけの医者でします」と即答して家族の元に帰された。しかし当時、市川にかかりつけ医はおらず、咄嗟に出たウソだったが、念のため広島市内の病院で診察を受けると、腹膜炎になる寸前と診断されて緊急手術を受けた。退院後、身の振り方を市役所に問い合わせたところ、帰京を勧められて東京に戻ったため、後に広島に投下される原子爆弾の被害に遭わなかった[2]。 出生名は市川儀一という名前で、17、8歳の頃、市川崑に改名した。改名の理由は本名と通称の名前が二つある事に不便さを感じたためである[3]。『市川崑』の命名者は市川の叔父で、趣味の姓名判断が高じて、中国にある崑崙山脈から着想し、「儀一は良くない。字画もいいし、名前を縦に真ん中からパッと割って、左右同じだと将来性がある」と市川に改名を勧めた。市川自身はどうでも良かったと述懐しているが、その頃、漫画家の清水崑が売り出していて、市川も清水の名前と絵柄を気に入っていたこともあり、叔父の勧めに応じたという。後年に清水と面会し、共に通称と筆名であることが判明して、二人で大笑いし合ったという。17歳のときに、幼少時代にいつも見かけていた近所の質屋の娘をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を『週刊朝日』の懸賞小説に投稿し当選する[4]。 幼少期から絵を描く事が好きで、近所の茨住吉神社の周辺には活動写真館や芝居小屋が数件並んでおり、5、6歳の頃には尾上松之助主演の『児雷也』を鑑賞する等、演劇に身近に触れる環境があった。映画は洋画・邦画問わず鑑賞したが、市川自身は邦画のチャンバラ映画が好きで、市川百々之助や高木新平、阪東妻三郎のファンであった。中でも伊丹万作監督の『国士無双』が大のお気に入りだったという。
来歴
戦前