市川右太衛門
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いちかわ うたえもん
市川 右太衛門
1956年撮影
本名淺井 善之助
別名義市川 右一
生年月日 (1907-02-25) 1907年2月25日
没年月日 (1999-09-16) 1999年9月16日(92歳没)
出生地 日本大阪府大阪市西区
死没地 日本千葉県館山市
職業俳優
ジャンル映画
活動期間1925年 - 1964年
活動内容1925年:歌舞伎界からマキノ・プロダクションに入り、映画デビュー
1927年市川右太衛門プロダクションを設立
1936年松竹太秦撮影所に入社
1942年新興キネマから大映に移籍
1949年東横映画に入社
1951年:東横改組により東映に移籍
1966年:東映退社
著名な家族実兄:山口天龍(全勝キネマ設立者)
次男:北大路欣也
主な作品
旗本退屈男』シリーズ

 受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1995年第18回
2000年第23回
ブルーリボン賞
大衆賞
1956年
その他の賞
牧野省三
1961年

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市川 右太衛門(いちかわ うたえもん、1907年明治40年〉2月25日 - 1999年平成11年〉9月16日)は、日本映画俳優。本名:淺井 善之助(あさい ぜんのすけ)[1]。愛称は「右太さん」。次男は俳優の北大路欣也

戦前・戦後期の時代劇スターとして活躍し、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎大河内伝次郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[2]。映画主演総数は300本を超える。
来歴

1907年明治40年)2月25日大阪府大阪市西区に生まれる(香川県丸亀市生まれの説もあるが、本人は後述の著書『旗本退屈男まかり通る』でこれを否定している)。祖父が坂出市の旧家の出で、生家は鉄工所を経営していた。

遊芸好きの両親の影響で、5歳のころから日本舞踊上方舞の山村流を習い始める。6歳の時、子役として初代中村扇雀一座に借り出され、『菅原伝授手習鑑』に菅秀才の役で出演して初舞台を踏む。
歌舞伎界へ

大阪市立九条東小学校卒業後、上方歌舞伎の第一人者・2代目市川右團次の弟子となり、市川 右一(いちかわ ういち)の名をもらう。のち中村扇雀(2代目鴈治郎)が座頭の関西青年歌舞伎の一員となる(座員はほかに市川百々之助、林長丸(長谷川一夫)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいた)。屋号は「高島屋」[3]で、主役を張って人気を集めた。やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役も任せられるようになったが、門閥出身ではないため出世には限界があった。

1924年(大正13年)、帝国キネマから映画界入りの誘いを受けるが、このときは断っている。
映画界へ『黒髪地獄』(1925年)

1925年(大正14年)、歌舞伎界の若手俳優を、自ら主宰する映画会社マキノ・プロダクションに迎えようと考えていた牧野省三が右一の評判を聞き、「主演者」として映画入りを誘う。18歳の右一はこれを受け、阪東妻三郎が去った後のマキノ・プロダクション御室撮影所へ入社。名前も市川右太衛門と改名したが、これはそれまでの芸名・右一に五代目中村歌右衛門の名と、右一の師匠の右團次の名を合わせて、牧野が命名した[4]

同年12月25日に公開された『黒髪地獄』(沼田紅緑監督)の主演で映画デビュー。翌1926年(大正15年)にかけて、沼田監督の『快傑夜叉王』『孔雀の光』などに主演。阪東妻三郎に次ぐ人気俳優となり、月形龍之介と合わせて「マキノを担う両星」と謳われた[4]
右太プロの設立

1927年(昭和2年)2月、デビュー以来13本の作品でコンビを組んできた沼田紅緑監督の早世や、スターたちの独立プロ設立が連続したことなどもあって、マキノプロを退社し、4月に笹川良一の支援で市川右太衛門プロダクション(通称:右太プロ)を設立して独立。同時に奈良県生駒郡伏見村(現在の奈良市あやめ池北1丁目)にあるあやめ池遊園地内に撮影所を建設した。

1928年(昭和3年)からは東亜キネマから配給提携先を松竹キネマに変え、翌1929年(昭和4年)には伊藤大輔監督の『一殺多生剣』などを送り出す。華麗な衣装、颯爽とした美剣士を演じたこの『一殺多生剣』や『東海の顔役』は初期の代表作と呼ばれている。翌1930年(昭和5年)、『旗本退屈男』で初めて早乙女主水之介役を演じ、右太プロ内で7本の続編を製作した。後、このシリーズは30数年に及ぶ人気シリーズとなった。

1932年(昭和7年)、松竹トーキー映画忠臣蔵』に2役で出演。この頃は映画界がサイレントからトーキーに移行したときであり、多くのスターたちがトーキー発声に苦戦する中、「セリフとともの演技」を無事演じてみせ映画は成功、この転換期を乗り切った。

1936年(昭和11年)、製作規模が拡大していく本格的なトーキー時代に入って、独立プロでは製作困難となり、右太プロは松竹へ吸収合併、あやめ池の撮影所は閉鎖した[5]。右太衛門は松竹太秦撮影所に入社し、『旗本退屈男』シリーズでは初のトーキー作品となる『富士に立つ退屈男』などに主演した。
新興キネマから大映へ

1937年(昭和12年)、新興キネマ京都太秦撮影所に移籍、看板俳優として『国姓爺合戦』『大村益次郎』などの大作に主演したほか、同社でも『旗本退屈男』シリーズの一本『宝の山に入る退屈男』に主演した。しかし、この作品で一旦『旗本退屈男』シリーズが打ち止めとなる。軍当局から「非常時にふさわしくない」との横槍が入ったためだった。『退屈男』を禁じられた右太衛門は『無法松の一生』の映画化に執心していたが、この配役は当初から阪東妻三郎に決まっていたため、稲垣浩監督が説得して断念させた。稲垣は代わる主演作として、以前から右太衛門のためにと構想していた山本有三の『不惜身命』を会社側に推し、情報局からも協力を得た。ところが「原作者の山本が社会主義者である」との理由で、ここでも軍部から横槍が入り、企画は頓挫を余儀なくされた。稲垣は「製作していたら『無法松』以上の作品が作れたろう」と惜しんでいる[6]

1942年(昭和17年)、戦時統合により、新興キネマは日活大都映画と合併して大映に改組した。


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