市丸利之助
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.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}市丸(いちまる) 利之助(りのすけ)
Rinosuke Ichimaru

生誕1891年9月20日
日本佐賀県東松浦郡久里村
(現:佐賀県唐津市
死没1945年3月26日(53歳)
日本硫黄島東京都
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1913年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年明治24年)9月20日 - 1945年昭和20年)3月26日)は、日本海軍軍人で、日本海軍の航空草創期のパイロットである。硫黄島の戦いで戦死。最終階級海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。
経歴.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースにルーズベルトニ与フル書の原文があります。

佐賀県東松浦郡久里村(現佐賀県唐津市)出身。旧制唐津中学校を卒業後、海軍兵学校および陸軍士官学校第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)に海軍兵学校第41期に入校し、1913年大正2年)に118名中46位の成績で卒業した。1917年(大正6年)12月、第3期航空術学生(飛行学生の前身)となり、1918年(大正7年)12月に卒業し、パイロットの資格を習得。

1926年(大正15年)7月、訓練飛行中に操縦索が切れ、搭乗機が墜落し右大腿骨、頭蓋骨、顔面を骨折するという瀕死の重症を負った[1]。再手術を行うなどして、 療養生活は3年近くに及んだ。復帰後、予科練設立委員長となり、次いで初代部長として教育にあたる。市丸の指導は教育学的にも評価され[1]、市丸は予科練育ての親といわれる。空母加賀」副長、鎮海海軍航空隊司令を経て、1936年(昭和11年)12月、海軍大佐に進級。

鈴鹿海軍航空隊司令在任時の1941年(昭和16年)12月、真珠湾攻撃により太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)5月、海軍少将に進級。同年9月、第二十一航空戦隊司令官に着任し、南方戦線で指揮を執り、次いで第十三連合航空隊司令官として内地防空にあたる。1944年(昭和19年)に第二十七航空戦隊司令官として硫黄島に赴任し、翌年の硫黄島の戦いで戦死した。市丸の詳しい戦死の状況は明確ではない[2]。なお、硫黄島参謀の堀江芳孝が生還者から聞いた話では、市丸は栗林忠道兵団長らとともに3月17日の総攻撃に参加したが、途中で本隊と離れ離れになったため、陸軍通信隊の軍曹と2人で米軍のトラックの中に潜入し、その後は海軍残存部隊を集めてさらに抵抗を続けたという[3]

アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙(「ルーズベルトニ与フル書」)を残し戦後有名となる。手紙はアナポリス博物館に保管されている[2]。なお市丸は同期生で自決した草刈英治とは親友の間柄であった[4]

なお、市丸には3人の娘がいる。
年譜

1891年(明治24年)9月20日 - 佐賀県東松浦郡久里村柏崎に生まれる

1910年(明治43年)3月31日 - 旧制唐津中学校第10期卒業

9月12日 - 海軍兵学校第41期入校


1913年大正2年)12月19日- 海軍兵学校卒業

1917年(大正6年)12月 - 第3期航空術学生

1918年(大正6年)12月 - 航空術学生卒業

1925年(大正14年)12月 - 海軍少佐

1926年(大正15年)7月 - 搭乗機の墜落事故

1929年昭和4年) - 予科練設立委員長

1930年(昭和5年) - 予科練初代部長

1935年(昭和10年)5月 - 空母加賀」副長

1936年(昭和11年)10月 - 鎮海空司令

12月 - 海軍大佐


1937年(昭和12年)11月 - 横浜空司令

1938年(昭和13年)12月 - 横須賀鎮守府付き

1939年(昭和14年)4月 - 父島空司令

11月 - 第13空司令


1940年(昭和16年)11月 - 鈴鹿空司令

1942年(昭和17年)5月 - 海軍少将

8月 - 南西方面艦隊司令部付

9月 - 第21航空戦隊司令官


1943年(昭和18年) - 軍令部

11月 - 第13連合航空隊司令官


1944年(昭和19年)8月 - 第27航空戦隊司令官。硫黄島に着任

1945年(昭和20年)2月19日 - 米軍硫黄島に上陸開始

3月17日 - 海軍中将

3月26日 - 戦死したと推定される。


戦死状況

1945年3月26日未明、日本軍硫黄島守備隊は最後の組織的反攻を行い、栗林忠道陸軍中将、市丸海軍少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ総攻撃をかけた。

市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ日本語、英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越してこれを村上治重大尉に渡した。村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し戦死。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。


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