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四川省
略称: 川 / 蜀 (.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Chu?n / Sh?)
簡体字四川省
繁体字四川省
?音 Sichu?n
四川省
中国語 四川
郵政式SzechwanまたはSzechuan
文字通りの意味Sichuan
発音記号
標準中国語
漢語?音Sichu?n
ウェード式Ssu4-ch'uan1
IPA[s?̂t??wán] ( 音声ファイル)
注音符号?????
その他官話
四川?音Si4-cuan1
呉語
ローマ字sy3tshoe1
客家語
客家語?音Si-tshon
粤語
粤?sei3cyun1
?南語
?南語白話字Su-chhoan
台湾語ローマ字Si-tshuan
四川省(しせんしょう、スーチュアンしょう、中国語: 四川省、?音: Sichu?n Sh?ng、英語: Sichuan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。五代以後、南北朝の対峙期に作られた四川こと四路(重慶を含む)が命名の始原。朱元璋によって科挙の際、南北のどちらでもない「中部」として配分が振り分けられた。 四川省は北西は青海省、北は甘粛省及び陝西省、東は重慶、南は貴州省及び雲南省、西はチベット自治区と接する。 天険の要害に守られた急峻な山岳地帯に位置すること、東部に四川盆地が広がり内陸部にもかかわらず温暖で肥沃な米作地であることから「天府之国」と称される。また、海には面していないが中国最大級の湖瀘沽湖を擁し、水産物、特に蝦の一大産地でもある。かつての巴蜀のうちの巴国にあたる重慶は従来は四川省に属していたが、1997年重慶直轄市として分離した。省北部の岷山山脈や、省西部、南部にはチベット族、イ族、羌族など少数民族が多い。四川省北部はジャイアントパンダの生息地として知られる。中国最大のパンダ保護区は臥竜自然保護区
地理
南北朝時代のみならず中央が少しでも乱れると瞬く間に流民が集まり大規模な反乱に必ず至る四川の地(漢晋唐宋明清の末など)。それが隋の文帝により漢王朝の発祥地である漢中郡を割かれて戦略的に今日の陝西南部に合併されて以降千四百年間、諸葛亮の時代に建議されたような四川盆地から子午谷を抜き長安へ出撃する可能性が全く絶たれ、中原王朝の制圧が永く効くようになった。
歴史「四川省 (中華民国)」も参照
近年広漢市で三星堆遺跡が発掘され、3,000年前に古蜀の地に存在した仮面王国が明らかになった。四川は古代の巴蜀(中国語版)(はしょく、「巴(英語版)」は現在の重慶一帯、「蜀」は現在の成都一帯)の地である。(→山海経)
前316年に秦によって巴蜀が滅ぼされ(秦滅巴蜀の戦い)、秦の版図に編入され、その険しい山岳地帯である地理的条件から流刑の地とされた。秦の蜀郡郡守李冰(りひょう)父子(二郎神伝説)は、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて都江堰を建設しそれにより成都平原では水害も旱魃もなく、古代以来の中国で最も豊かな農業地帯となった。前206年に秦が滅亡し、劉邦が項羽から漢中と巴蜀が与えられる。漢中王を号した劉邦は当地を基盤として勢力を増大し、やがて項羽を討ち中国を統一、中華王朝としての漢朝を建国した。漢王朝が出来た当初は流刑地として以外には開拓が進まなかったが、徐々に豊かになっていく。三国時代には、諸葛亮が益州(四川盆地、漢中盆地)を評して、天然の要害で土壌も豊かな天府の地であり漢の劉邦の帝業の基礎となったと述べている)。彼を幕僚とした前漢の皇族劉勝の末裔を自称する劉備によりこの地に蜀漢が建てられ、魏呉と天下を争った。
五胡十六国時代には成漢・後蜀が晋の支配を、五代十国時代には前蜀・後蜀が中原支配を脱し、四川省を中心に独自の政権を樹立している。1001年(咸平4年)、北宋は成都府路・梓州路・利州路・?州路(現在は重慶市)の4地方を統合して四川路を設置、これより現在までこの地を四川と称する。
明末清初の動乱期に、張献忠もしくはそれに続く清軍豪格によって多くの人が殺され(屠蜀(中国語版))、その後の100年間にわたり、湖北省・湖南省・広東省からの移民が朝命でプランされて徐々に復興した。
1912年、保路運動が清王朝の滅亡の直接の原因となった。古来より続く、四川政権が100日たらずで中原王朝から滅ぼされ(当の四川の女花蕊夫人から「十四万人斉解甲、更無一箇是男児」とののしられた対象)、またまさかと思うような泰平の王朝を滅ぼすという歴史の悪夢の最後を締めくくった。
清の徳宗に諸外国と組んでチベットを乗っ取らないように特に注意を払われた(崇陵伝信録)。徳宗は四川省出身の官員にさえ怒りをぶつけて朝見が充てがわれたら無言を通した記録がある。外国の中でもイギリス軍によって1926年、万県市街が砲撃される(万県事件)。
1938年、日中戦争の結果南京を追われた?介石率いる国民政府は重慶に国都を移している。その後、日中戦争終結後の1946年に国民政府は南京に戻るが、国共内戦が激化すると?介石は再び重慶に逃れ、1949年12月に成都を経て台湾に脱出している。
1949年12月27日に人民解放軍が成都を占領し、四川省は中華人民共和国の実効支配下に入る。
これとほぼ同じくして西康省の康定も占領、人民政府は西康の名目上の領域ではなく、中華民国西康省政府が実効支配していた地域(カム東部)だけを管轄領域として、西康省蔵族自治区を発足させた。