己斐橋
下流より
基本情報
国 日本
所在地広島県広島市西区
左岸:福島町 - 右岸:己斐本町
交差物件太田川水系太田川(太田川放水路)
路線名広島県道265号伴広島線[1]
施工者上部工 : 高田機工 [2]
竣工1965年(昭和40年)[3]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分55.9秒 東経132度25分57.6秒 / 北緯34.398861度 東経132.432667度 / 34.398861; 132.432667
己斐橋(こいばし)は、広島県広島市の太田川(太田川放水路)にかかる道路橋。下流側に側道橋(歩道橋)がある[3]。
少なくとも安土桃山時代からあった橋で、近世は西国街道筋、近代は国道筋、現在は広島県道265号伴広島線の橋である。昭和初期以前にあった山手川(己斐川とも)に架かる橋で、太田川放水路整備に伴い現在のものに架け直された。
上流側に広島高速4号線(西風新都線)の広島西大橋、下流側に平和大通りと広島電鉄本線が通る新己斐橋がある。東に道沿いに進めば天満橋、さらに東へ向かい本川橋を渡ると広島平和記念公園へと入る。右岸側下流にJR西広島駅と広電西広島駅、上流にノートルダム清心中学校・高等学校がある。 最初の架橋年は不明。慶長元年(1596年)『毛利氏奉行人連署書状』には文禄の役のため名護屋城に向かう豊臣秀吉がこの地を通るため、己斐橋の修繕を命じられた事が書かれている[4]。つまり安土桃山時代にはこの橋が存在していたことになる。 (中世)山陽道はこの地の北の山側を通っていたが、近世山陽道(西国街道)が己斐橋を西の玄関口[5]として福島橋・天満橋から広島城下に入るルートに変更されたが、その時期については諸説ある。 城下から佐伯郡へ出る橋ということから「出郡橋」、佐伯郡と沼田郡の堺にあることから「佐沼橋」とも呼ばれていた[7]。 この地は城下への西の玄関口であり要害の地でもあったことから、戦略上・防犯上の理由に架橋規制が行われており[8][7][9]、この橋は山手川(己斐川とも)に唯一架けられた橋であった。
歴史
『毛利氏奉行人連署書状』の内容から、安土桃山時代に毛利氏が整備したとする説がある[4]。
広島市史などの公式的には、江戸時代初期広島藩主福島正則が整備したとしている[4]。
1880年ごろの広島の地図。最も左側の川にかかる唯一の橋が己斐橋。明治初期ごろは川が広島市と佐伯郡己斐村の境だった。拡大
Clip 1939年旧陸軍撮影。下側は広電己斐鉄橋(当時は電車専用橋)。拡大
Clip 1945年米軍作成。拡大
Clip1962年[6]。太田川放水路工事中および福島町区画整理中。己斐橋は旧橋。下流側の新己斐橋は架橋しているが平和大通り未整備であり広電も旧橋を通っている。拡大
Clip2008年[6]。