logo己斐城
(広島県)
別名己斐新城、平原城
天守構造なし
築城主己斐氏
主な城主己斐宗端、己斐直之、己斐興員
廃城年慶長5年(1600年)以降
遺構なし
指定文化財なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度24分27.9秒 東経132度25分29.0秒 / 北緯34.407750度 東経132.424722度 / 34.407750; 132.424722
己斐城(こいじょう)は、広島県広島市西区己斐上四丁目にあった鎌倉時代中期から戦国時代の日本の城(山城)。 厳島神社の神領衆である己斐氏
概要
己斐城は己斐新城、平原城とも呼ばれ、この南約1.5kmにある己斐古城(岩原城)と区別される。 1515年、銀山城主・武田元繁が己斐豊後守師道入道宗端を攻撃し、数か月にわたり包囲するが落城には至らなかった。己斐宗端は1517年の有田合戦で武田元繁陣営として毛利元就勢と戦い討死した。 宗端の子、己斐豊後守直之の時、1554年の折敷畑の戦いの前に草津城などとともに毛利元就に攻撃され、落城した(防芸引分)。直之は、翌年の厳島の戦いで毛利方の宮尾城の城将として戦い、合戦後に隠居した。 その後、直之の弟、己斐利右衛門興員が城主となった。 関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長に転封されるとともに廃城となった。 山頂付近には城跡を示す石碑や案内板があり、本丸、二の丸、南郭などの遺構にはそれを示す石柱が設置されている。
歴史
現在
関連項目
己斐氏
佐東銀山城 - 三入高松城 - 草津城 - 桜尾城 - 宮尾城 - 府中出張城 - 仁保城 - 矢野城 - 広島城
己斐町