巫蠱の禍
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巫蠱の禍(ふこのか)は、前漢征和2年(紀元前91年)、武帝の治世末期に起きた事件である。巫蠱と呼ばれる呪術を巡って前漢の都長安が混乱に陥り、ついに皇太子の劉拠が挙兵するに至った。巫蠱の獄(ふこのごく)、巫蠱の乱(ふこのらん)とも言う。

徐衛民と劉江偉によれば、巫蠱の禍は前漢中期に増大していた社会矛盾の噴出であり、武帝時代の政治に重大な影響を及ぼしたという[1]。なお、呂思勉(中国語版)は事件の記述に胡巫()が現れることを根拠として、巫蠱は中国に元来あったものではなく匈奴などの外国からもたらされたのではないかとする[2]。匈奴には敵軍の通り道に牛や羊を埋めて呪詛する習慣があったといい、この事件で行われた偶人(木製の人形)を地中に埋めるという手法がそれと関係する可能性はある[3]
経過

征和元年(紀元前92年)夏、武帝が建章宮にいた際、一人の男が帯剣して中竜華門に入るのを見た。武帝は男を異人ではないかと疑ってこれを捕えるよう命じたが、男は剣を捨てて逃げ、捕えることができなかった。武帝は怒って門候(城門の役人)を処刑した[4]。冬11月、三輔の騎士を動員して上林苑を捜索した。捜索のために長安の城門も閉じられ、11日後にようやく解かれた。この頃、巫蠱の禍が始まった[5][6]

公孫賀は夫人が皇后・衛子夫の姉であったために重用され、太僕を経て丞相に引き立てられていた[7][8]。子の公孫敬声は父に代わって太僕となったが、皇后の甥であることを笠に着て驕奢の振る舞いが多く、北軍の軍費を横領したことが発覚して投獄された[9][10]。公孫賀は、陽陵の大侠客として知られた朱安世という者を捕え、それと引き換えに公孫敬声の罪を除こうとした。ところが捕えられた朱安世は「丞相の災いは皇族にまで及ぶぞ。南山の竹を全て使っても俺の自白を書き留めるのに足らず、斜谷の木を全て使っても俺の手かせ足かせを作るのに足らないだろうよ」と笑った。そして獄中から、公孫敬声が陽石公主(武帝の娘)と密通していること、甘泉宮(離宮)への道に偶人を埋めて武帝を呪っていることを告発したのである[11][12]

征和2年春正月、公孫賀も投獄されて公孫敬声とともに獄死、一族はみな誅せられた[13][14][15]。代わって中山靖王の子で?郡太守の劉屈?が丞相を拝命した[16][17]。夏閏4月には武帝の娘である諸邑公主と陽石公主、衛皇后の甥で衛青の子である長平侯衛伉が誅せられた[18][19][20]。その頃、武帝は甘泉宮へ行幸した[21][22]。武帝が甘泉宮で病床に臥せっていることを知った江充は、衛皇后や衛皇后の子・劉拠(衛太子)に憎まれていたことから老齢の武帝が崩御した後に誅せられるのを恐れ、皇帝の病は巫蠱によるものと奏上し、巫蠱の摘発を命ぜられる[23][24][25]。江充は胡巫を率い、地面を掘り返して偶人を捜索し、呪い師の類いを捕えては証拠をでっちあげ、拷問にかけて自白させた。人々はお互いに巫蠱の罪で誣告しあい、連座して死ぬ者は数万人に及んだという[26][27]

年老いた武帝は左右の臣下がみな巫蠱により自分を呪っているのではないかと疑い、その事実の有無にかかわらずあえて冤罪を訴えようとする者もいなかった。江充はこれに付け入り、宮中の蠱気を除かねば武帝の快癒はないと胡巫の檀何という者に言上させ、按道侯韓説御史の章?、黄門侍郎蘇文らとともに宮中を捜索した。後宮で寵愛を受けていない夫人から捜索を始め、皇后宮を経て太子宮にまで至り、ついに偶人を発見した[28][29][30][31]。驚愕した劉拠は太子少傅の石徳(石慶の子)に問うたが、連座して誅せられることを恐れた石徳は扶蘇を引き合いに出し、武帝の使者を騙ってでも江充を捕えてその陰謀を暴くように勧めた。劉拠は初め逡巡したが、劉拠を捕えようとする江充の動きが速かったため、結局は石徳の言に従った[32][33]

秋7月、劉拠の食客が武帝の使者を騙って江充らを捕えた。韓説は偽使を疑い従わなかったのでその場で殺され、章?は傷を負って後に死んだ。劉拠は「趙の下郎め、前に趙王父子を乱したのに飽き足らず、さらにまた我が父子を乱そうというのか!」と江充を罵って斬った。江充は趙国邯鄲の生まれであり、趙国の太子の罪を暴いたことがあったのである。また、胡巫も上林苑の中で焼き殺された。その夜、劉拠は舎人の無且に節(皇帝の旗)を持たせて未央宮へ入り、長御(女官)の倚華を通じて衛皇后にことの次第を伝えるとともに、中厩の車や長楽宮の衛兵を動員し、武庫から兵器を運び出した[34][35][36]

甘泉宮へ逃げ帰った蘇文は武帝に劉拠の謀反を訴えた。武帝はそれでも謀反とは断定せず、使者を送って劉拠を召し出すことにした。ところが使者はあえて劉拠のもとには行かず、殺されそうになったということにして甘泉宮へ帰ってきたので、武帝は謀反を真実と思い激怒した[37]


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