巨鹿郡
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鉅鹿郡(きょろく-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の河北省?台市一帯に設置された。
概要

秦のとき、を滅ぼすと、鉅鹿郡が立てられた。

前漢のとき、鉅鹿郡は冀州に属し、鉅鹿南?広阿象氏?陶宋子楊氏臨平下曲陽?新市堂陽安定敬武歴郷楽信武陶柏郷安郷の20県を管轄した[1]

37年建武13年)、広平国を廃止し、鉅鹿郡に併合した。後漢の鉅鹿郡は?陶・鉅鹿・楊氏・?・下曲陽・任・南和・広平・斥章・広宗・曲周・列人・広年・平郷・南?の15県を管轄した[2]

のとき、鉅鹿国が置かれ、?陶・鉅鹿の2県を管轄した[3]

北魏のとき、鉅鹿郡は定州に属した。487年太和11年)、定州の鉅鹿郡から分割し、南鉅鹿郡が置かれた。494年(太和18年)、南鉅鹿郡は南趙郡と改称され、相州に転属した。526年孝昌2年)、殷州(北斉以降の趙州)が立てられると、南趙郡は殷州に転属した。東魏のとき、定州の鉅鹿郡は曲陽・藁城・?の3県を管轄し、殷州の南趙郡は?陶・宋子・西経・?遥の4県を管轄した[4]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、鉅鹿郡は廃止され、趙州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、旧鉅鹿郡の地には趙郡や襄国郡が置かれた[5]

618年武徳元年)、唐により襄国郡は?州と改められた。742年天宝元年)、?州は鉅鹿郡と改称された。758年乾元元年)、鉅鹿郡は?州と改称され、鉅鹿郡の呼称は姿を消した[6]
脚注^漢書』地理志上
^後漢書』郡国志二
^晋書』地理志上
^魏書』地形志二上
^隋書』地理志中
^旧唐書』地理志二










漢朝の行政区分

 前漢

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