巨砲丈士
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巨砲 丈士

基礎情報
四股名大真隆年 → 大真克一 → 大真毅士 → 大真毅一 → 大真毅士 → 大真毅一 →大真毅士 → 巨砲丈士
本名松本 隆年
生年月日 (1956-04-18)
1956年4月18日(68歳)
出身三重県四日市市
身長183cm
体重148kg
BMI44.19
所属部屋二所ノ関部屋大鵬部屋
得意技右四つ、寄り、上手出し投げ
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴753勝809敗18休(127場所)
幕内戦歴533勝637敗(78場所)
優勝十両優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1971年5月場所[1]
入幕1979年3月場所[1]
引退1992年5月場所[1]
備考
金星10個(2代目若乃花4個、三重ノ海1個、輪島1個、北の湖1個、千代の富士2個、隆の里1個)
2013年1月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

巨砲 丈士(おおづつ たけし、1956年4月18日 - )は、三重県四日市市出身で大鵬部屋(入門時は二所ノ関部屋)所属の元大相撲力士。本名は松本 隆年(まつもと たかとし)。最高位は東関脇。身長183cm、体重148kg。得意手は右四つ、寄り、上手出し投げ。時津風部屋所属の元十両筆頭・劍龍は父で、全日本選抜柔道体重別選手権大会で2度優勝するなど柔道選手として活躍した松本宣子は妹[1]。歴代横綱13人との対戦は大相撲史上2位の記録。
来歴

中学時代は野球と空手を行い、野球の腕前は東邦高校から勧誘が来るほどのものであった。相撲には興味が無かったが大鵬の元兄弟子が近くに引っ越してきてその娘が松本と同級生になり、 そこから内弟子探しに奔走していた大鵬に連絡が渡って大鵬から松本へ電話がかかった。松本は大鵬から会うよう頼まれた末に根負けし、1971年3月に大阪で大鵬と初めて対面する。松本は大鵬と相撲を取ったが大鵬が手加減してあっさり押し出されたことですっかりその気になって入門を望むようになる。1971年(昭和46年)5月場所、横綱大鵬の内弟子として二所ノ関部屋から初土俵を踏んだ[1]。入門して初めて父親が元力士であることを知った。1971年(昭和46年)12月に大鵬が二所ノ関部屋から分家独立したことにより、大鵬部屋へ移籍した。1977年(昭和52年)7月場所、満山(のち嗣子鵬)と共に新十両となり大鵬部屋初の関取として話題となった。

1979年(昭和54年)3月場所で新入幕を果たし、大鵬部屋第1号の幕内力士となった[1]。その後も相撲巧者ぶりを見せて、1980年(昭和55年)3月場所で新小結1981年(昭和56年)5月場所で関脇に昇進した。足腰の良さと腰の重さを生かし大物食いとしても知られ、大関候補と目された時期もあったが、良い格好になりながら勝ち身が遅く、善戦止まりで爆発力に欠ける一面があった。 金星は第54代横綱輪島から第59代横綱隆の里までの計6横綱(輪島、北の湖若乃花三重ノ海千代の富士、隆の里)から10個を獲得し、1984年(昭和59年)9月場所には6日目千代の富士・7日目隆の里と2日連続の金星獲得を遂げた。若乃花とは金星4個を含め6勝7敗とほぼ五分の対戦成績で渡り合った。

1979年5月場所は10勝し敢闘賞、9月場所は若乃花と三重ノ海に勝ちダブル金星。1980年5月場所は輪島に勝ち3個目の金星。1981年3月場所は北の湖に勝ち11勝し技能賞、9月場所はまたも北の湖に勝ち5個目の金星で殊勲賞。1982年1月場所は1横綱1大関に勝ち6個目の金星。1984年9月場所は2横綱2大関に勝ち2回目のダブル金星。1986年3月場所は1横綱1大関に勝ち10個目の金星。

金星を獲得した8場所では、中々大勝ち出来ず勝ち越したのも3場所だけだったので、意外にも三賞獲得は少なかった。秋場所と相性が良く、1979年?1984年の6年で5回三賞か金星を獲得している。

関脇には3場所しか在位できず、大関昇進の夢は果たせなかったが、丈夫で長持ちの代表的な力士として幕内連続在位78場所(幕内では休場は1回もなかった)[1]、幕内連続出場1170回を数えた。1991年(平成3年)5月場所には幕内連続在位10年以上を評価されて太寿山忠明と共に理事長特別表彰を受けた。1992年(平成4年)1月場所、幕尻前頭15枚目で4勝11敗と大敗し十両へ陥落(この場所の千秋楽舞の海戦では、相手のお株を奪う立合いの八艘飛びで勝利した)。以降も幕内復帰を目指し出場し続けたが負け越しが続き、十両在位のまま1992年(平成4年)5月場所を最後に36歳で引退した。

現役時代の一番の思い出の取組として1981年(昭和56年)11月場所千秋楽の隆の里戦を挙げた。取組中にもみ合った際に瞼の上を切って出血し、その状態のまま巨砲が頭を付ける体勢を取ったため、隆の里も返り血を浴びて胸が真っ赤に染まっていた。2分近い取組で巨砲が敗れたものの、雑誌『相撲』1981年12月号ではこの一番を「プロレスを見ているよう」と評した。

対千代の富士戦は5勝37敗(うち金星2、不戦勝1)であったが、合計42回の対戦は、北天佑の47回、朝潮の46回に次ぎ、最高位が関脇以下の力士としては最多である。千代の富士の横綱昇進後に限っても33回[注釈 1]対戦しており、横綱と顔が合う上位で息の長い活躍を続けたことを示している。


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