巨済市
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:市庁の建物の外観の画像提供をお願いします。(2013年4月)

慶尚南道 巨済市巨済島東部の玉浦洞と玉浦港
位置

各種表記
ハングル:???
漢字:巨濟市
日本語読み仮名:きょさいし
片仮名転写:コジェ=シ
ローマ字転写 (RR):Geoje-si
統計(2023年
面積:402.3 km2
総人口:234,038[1]
男子人口:122,542 人
女子人口:111,496 人
行政
国: 大韓民国
上位自治体:慶尚南道
下位行政区画:10洞9面
行政区域分類コード: 
巨済市の木:チョウセンマツ
巨済市の花:ツバキ
巨済市の鳥:カモメ
自治体公式サイト: ⇒巨済市
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巨済市(コジェし)は、大韓民国慶尚南道の南海上にある。韓国で2番目に大きなである巨済島を市域としている。造船業が盛んであり、漁業でも知られる。
地理

市は、巨済島と付属島嶼から構成される。鎮海湾を挟んで昌原市がある。西には固城半島先端部の統営市が狭い見乃梁海峡を隔てて位置しており、巨済島西部と巨済大橋(740m)・新巨済大橋(940m)で結ばれている。また、東北方に約9km隔てて加徳島釜山広域市江西区)があり、巨加大橋(8.2km)で結ばれている。

東南方向には朝鮮海峡対馬海峡西水道)を隔てて日本対馬(上島)がある。巨済島―対馬間は朝鮮海峡が最も狭まる海域の一つである。

市の歴史的な中心は西北沿岸部の現市庁所在地・古県(コヒョン/??)。東海岸の長承浦(チャンスンポ/???)一帯は植民地期には漁業によって、また大韓民国成立後は玉浦(オクポ/??)に作られた造船所によって、島内でいち早い発達を遂げてきた。市の人口も古県・長承浦の両地域に集中する。
気候

最高気温極値38.6℃(1994年7月20日)

最低気温極値-10.1℃(2004年1月22日)

巨済市の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)19.3
(66.7)19.4
(66.9)24.2
(75.6)27.9
(82.2)34.4
(93.9)33.5
(92.3)38.6
(101.5)37.4
(99.3)34.2
(93.6)29.9
(85.8)25.8
(78.4)19.4
(66.9)38.6
(101.5)
平均最高気温 °C (°F)7.3
(45.1)9.4
(48.9)13.5
(56.3)18.6
(65.5)23.1
(73.6)25.8
(78.4)28.3
(82.9)29.9
(85.8)26.5
(79.7)22.0
(71.6)15.7
(60.3)9.5
(49.1)19.1
(66.4)
日平均気温 °C (°F)2.6
(36.7)4.4
(39.9)8.4
(47.1)13.4
(56.1)17.9
(64.2)21.2
(70.2)24.8
(76.6)26.0
(78.8)22.0
(71.6)16.7
(62.1)10.6
(51.1)4.7
(40.5)14.4
(57.9)
平均最低気温 °C (°F)?1.4
(29.5)?0.2
(31.6)3.5
(38.3)8.3
(46.9)13.0
(55.4)17.4
(63.3)22.1
(71.8)22.9
(73.2)18.2
(64.8)12.2
(54)6.1
(43)0.4
(32.7)10.2
(50.4)
最低気温記録 °C (°F)?10.4
(13.3)?10.1
(13.8)?8.0
(17.6)?1.4
(29.5)4.8
(40.6)8.2
(46.8)13.8
(56.8)12.4
(54.3)8.6
(47.5)1.0
(33.8)?5.2
(22.6)?8.9
(16)?10.4
(13.3)
降水量 mm (inch)40.4
(1.591)60.5
(2.382)112.2
(4.417)177.2
(6.976)203.0
(7.992)237.1
(9.335)367.6
(14.472)330.4
(13.008)209.5
(8.248)96.4
(3.795)59.0
(2.323)37.0
(1.457)1,930.3
(75.996)
平均降水日数 (?0.1 mm)4.85.47.89.29.010.614.311.99.05.06.14.597.6
湿度54.054.458.560.065.373.479.576.673.367.663.456.865.2
平均月間日照時間169.9178.0204.0217.4233.2182.7153.4182.1168.5195.1165.3166.42,216
出典:韓国気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1972年-現在)[2][3]

歴史「巨済島」も参照

古来、巨済島は日本と朝鮮との交通の要衝であった。市の公式サイトでは、三韓時代の弁韓の一国で「倭と界を接す」[4]と記された?盧国を歴史的淵源に求めている。もっとも、?盧国の比定地には諸説あり、巨済島とする説は定説ではない。この島には、新羅時代に巨済郡という名の行政機関が置かれるようになった。

高麗時代、元寇に先立つ1267年、モンゴルの使臣殷弘・黒的が巨済島から日本への海路の険しさを見、「大洋万里、風濤の天を蹴る」[5]と報告している。1275年弘安の役では合浦(馬山)を出航した東路軍の軍船が巨済島で半月ほど停泊した。15世紀には倭寇の侵入が相次いだため、住民を半島本土に避難させる空島政策が一時的に採られた。古県城・鶏竜楼

16世紀末の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では巨済島は日本軍の拠点となり、諸将が島内に倭城を築いた。文禄の役の名目上の大将である豊臣秀勝はこの島で病死している。付近の海上では玉浦海戦巨済島海戦(漆川梁海戦)・閑山島海戦が戦われた。

近代に入ると、1889年に日本朝鮮両国通漁規則が結ばれ、東岸の長承浦や旧助羅(クジョラ/???, 舊助羅)などに日本人漁民が移住した。長承浦の湾口にあった通称「入佐村」は大規模な移住漁村であった。

1900年、ロシア帝国は、巨済島を租借する意があるとの風説を打ち消すためとして、大韓帝国に対し、巨済島不租借に関する露韓条約を結び、ロシア及び第三国への巨済島の租借を禁止させた[6]

韓国併合後の1914年に行われた地方行政区画の再編により巨済郡は廃止され、統営郡に編入される。[7]

朝鮮戦争が勃発すると島は後方基地となり、兵士の訓練所や避難民収容施設が設置された。島内にはアメリカ軍が設置した巨済島捕虜収容所(英語版)があり、1952年5月7日の巨済島事件(朝鮮語版)では共産主義者による暴動の舞台となった。

戦争中の1951年に郡の再設置に関する法律が公布され、1953年に巨済郡が再設置された。1970年代に2つの大きな造船所が設けられ、巨済は造船の島として発展を遂げる。1989年には長承浦邑が先んじて市制を施行して巨済郡を離脱するが、1995年に長承浦市と巨済郡が合併し、巨済市となった。
年表
巨済市

1995年1月1日 - 長承浦市・巨済郡が合併して巨済市が発足。(19

1999年4月22日 - 新巨済大橋開通。

2008年7月1日 - 新県邑を廃止し、4つの行政洞(長坪洞・古県洞・上門洞・水良洞)に分割。洞転換当時の2008年6月末、新県邑の人口は9万3279人で、6つの行政洞が置かれてる長承浦地域の6万9626人よりも多かった。(9面)

2009年7月13日 - 沙等面城浦里で加助島との間で連陸橋である加助連陸橋が開通され、巨済市の大きな島を接続する作業が最終段階に達した。

2010年12月14日 - 長木面と釜山広域市江西区加徳島をつなぐ巨加大橋が開通した。巨加大橋の開通により、巨済市と釜山市の通行距離は既存の140kmから60kmに、バスの運行時間は従来の130分から50分にそれぞれ短縮された。[8]

2016年5月1日 - 麻田洞が長承浦洞に編入。[8]

巨済郡

677年 - 裳郡が設置される。

757年 - 裳郡が巨済郡に改称される。

983年 - 岐城県と称する。

1414年 - 倭寇の侵入により、朝鮮王朝は巨済島に空島政策を実施。


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