巧如
永和2年 - 永享12年10月14日
1376年 - 1440年11月17日
1376年 - 1440年11月8日
上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[1] 下段・ユリウス暦
幼名光多賀麿
法名巧如
号證定閣
諱玄康
尊称巧如上人
宗旨浄土真宗
宗派(後の本願寺系諸派)
巧如(ぎょうにょ)は、南北朝時代から室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第6世宗主・真宗大谷派第6代門首。大谷本願寺住職。諱は玄康。法印権大僧都。父は第5世綽如。日野資康の猶子。第7世存如は長男。子に空覚
(光崇)、見秀尼、如乗(宣祐)。弟に藤島超勝寺開基頓円(鸞芸)と荒川興行寺開基周覚(玄真)。年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、生歿年月日を除き旧暦(宣明暦)表示とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。
永和2年、本願寺第五世綽如の第二子として誕生する。後に権大納言日野資康の猶子となって青蓮院で得度し大納言と称する。
康応2年/明徳元年(1390年)、綽如は「本願寺」を継承し第5世になるも、まもなく寺務を法嗣である巧如に委任し、越中国杉谷に草庵を結び退隠する。
明徳4年(1393年)4月24日、綽如が示寂。
応永元年(1394年)、本願寺住持職を継承し、とくに北陸への教化に尽力。弟の頓円
本願寺寺基の移転と分立
東西分立前
(本願寺の歴史)
大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321 → 大谷本願寺1321 - 1465 ⇒ 山科本願寺1483 - 1532 ⇒ 石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580 ⇒ 鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585 ⇒ 天満本願寺1585 - 1591 ⇒ 本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立) ?
東西分立後
(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派
→ 本願寺(通称:「六条門跡」・「本門」→「西本願寺」)1591(1603) -
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派
⇒ 本願寺(通称:「信淨院本願寺」・「七条本願寺」→「東本願寺」)1603 - (1987) → (東本願寺分派)?
東本願寺分派後
(1881) - 真宗大谷派
本願寺(東本願寺)1603 - 1987 → 真宗本廟(通称:東本願寺・本願寺)1987 -
1988 - 浄土真宗東本願寺派
東京本願寺1981 - 2001 → 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺2001 -
浄土真宗大谷本願寺派(本願寺文化興隆財団)
⇒ 本山本願寺(山科区上花山)1996 -
本願寺(京都市右京区)
⇒ (嵯峨)本願寺2005 -
東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている ⇒『宗憲』第十三条。
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。
本願寺歴代
東西分立前
(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) (教如) - (1603年 本願寺の東西分立) ?
東西分立後