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日本の政治家左藤 章さとう あきら
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1951-07-12) 1951年7月12日(72歳)
出生地 日本 福井県坂井郡
出身校福井大学工学部卒業
前職セーレン従業員
政治家秘書、衆議院議員
大谷学園理事
所属政党(新進党→)
(自由民主党→)
(無所属→)
自由民主党(岸田派)
称号工学士(福井大学・1974年)
親族左藤義詮(義祖父)
左藤恵(岳父)
公式サイト前衆議院議員 左藤章 公式ウェブサイト
左藤 章(さとう あきら、1951年〈昭和26年〉7月12日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の前衆議院議員(5期)。学校法人大谷学園理事長、学校法人光華女子学園理事、学校法人大阪聖徳学園理事、学校法人藤田学園評議員、学校法人木村学園理事、社会福祉法人聖徳園理事。旧姓は伊戸。
社団法人大阪青年会議所副理事長、防衛大臣政務官(第2次安倍内閣)、防衛副大臣兼内閣府副大臣(第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣)、内閣府副大臣(第4次安倍改造内閣)、衆議院安全保障委員長、衆議院文部科学委員長、自由民主党幹事長代理、同大阪府連会長などを歴任した。 政治家の左藤恵の娘婿となり、恵の秘書となった。また、左藤家が創始した大谷学園など、真宗大谷派系列の学校法人の役職を務めた。その後、2000年に衆議院議員に初当選した。第2次安倍内閣では防衛大臣政務官、第2次安倍改造内閣では防衛副大臣に加えて、内閣府副大臣を兼任した。第4次安倍改造内閣では内閣府副大臣(沖縄政策及び北方領土問題、情報通信技術(IT)政策、知的財産戦略、科学技術政策、宇宙政策、公正取引委員会に関する事務などの担当[2][3][4])に任命された。 福井県坂井郡(現あわら市)生まれ。福井県立高志高等学校、福井大学工学部卒業。大学卒業後、セーレンに入社し、在職中に結婚。妻の父は衆議院議員の左藤恵であり、結婚を機に左藤姓に改め、婿入りする。1979年、セーレンを退職し、以後義父である左藤恵の公設第一秘書を務める[要出典]。左藤恵の閣僚就任(郵政大臣、法務大臣、国土庁長官)の度、大臣秘書官を務め、左藤恵が自由民主党を離党し新生党の結党に参加した際は、自らもこれに従った[要出典]。 1996年、第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例近畿ブロック単独(名簿14位)で出馬したが、落選。その後、義父・左藤恵の自民党復党に伴い、自身も自民党の党籍を回復する。左藤恵の政界引退により、選出選挙区であった大阪2区の地盤を継承。2000年の第42回衆議院議員総選挙に自民党公認で大阪2区から出馬し、日本共産党の石井郁子らを破り初当選した。 2000年の初当選後、宏池会に入会する[要出典]。2003年の第43回衆議院議員総選挙でも、大阪2区で再選[5]。 2005年の郵政国会では、大阪府選出の自民党所属議員で唯一、郵政民営化に反対。郵政民営化関連6法案の衆議院本会議における採決では党の賛成方針に造反し、反対票を投じた。その後、郵政民営化法案は参議院で否決され、小泉純一郎首相は衆議院を解散する。解散後、左藤は自民党本部に対し、弁明書を提出した上で、選挙後の国会に郵政民営化関連6法案が再提出されれば賛成する姿勢を示し、自民党大阪府連もこれを受けて左藤の公認を自民党本部に対して申請したが[6]、結局公認を得られず、自民党は大阪2区に川条志嘉を擁立。第44回衆議院議員総選挙には無所属で大阪2区から出馬したが[7]、川条に2,530票差で敗れ、落選した。落選後は、朝夕、選挙区の駅前で街頭演説を行い[8]、第45回衆議院議員総選挙への出馬に向けた準備を進めていたが、前回の総選挙によって生じた大阪2区の保守分裂状態は解消されず[9]、2009年の第45回衆議院議員総選挙においても無所属の左藤、自民党の川条が大阪2区から出馬。左藤は前回に比べ約1,400票を上積みしたが、川条は大幅に得票数を下げ、いずれも民主党新人の萩原仁に敗北した[10]。
概要
来歴
生い立ち
政治家として
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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