ドイツの政党左翼党
Die Linke
党本部の置かれているカール・リープクネヒト・ハウス(旧ドイツ共産党本部)
共同党首マルティン・シルデヴァン
左翼党(さよくとう、ドイツ語: Die Linke、リンケ)は、ドイツの政党[1]。民主社会主義・社会主義・左派・極左を掲げ、左派党とも呼ばれる[1][9][2][3][4][5]。
2005年に二つの政党「WASG」と「左翼党-民主社会党」が政党連合の「左翼党」を結成。2007年に正式に合併して同名の政党「左翼党」となった。 ドイツ語の 「Die Linke」 には「党」(ドイツ語: Partei)の語はなく、直訳は単に「左翼」だが、ドイツの政党では「ドイツ語: Die Grunen」(緑の党)など政党が名称に「党」と付けない例があり、「Die Linke」も上述のように「左翼党」・「左派党」・「左の党」などと訳されている。 WASGの正式名称は「Arbeit & soziale Gerechtigkeit ? Die Wahlalternative」で、直訳は「労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ」。 新自由主義的な改革路線を採った党内右派のゲアハルト・シュレーダー首相(当時)率いるドイツ社会民主党(SPD)指導部に反発したSPD最左派が、2005年1月に一斉離党・独立して結成した政党。その後、SPD左派の大物政治家オスカー・ラフォンテーヌ元財務大臣(元SPD党首)が加わった。英語では「Labour and Social Justice ? The Electoral Alternative」。 「左翼党-民主社会党」(ドイツ語: Die Linkspartei.PDS)は、統一前のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の独裁政党だった「ドイツ社会主義統一党」(SED)の後継政党。 WASGと左翼党-民主社会党の政党連合「左翼党」は2005年9月18日の連邦議会選挙で、約8%(前回の民主社会党(PDS)は4%)の得票を得て議席獲得に必要な5%[10]の枠を突破。54議席を獲得し(うちWASG12、左翼党-民主社会党42[11])、事実上の議会第4党に躍り出た。 政党連合「左翼党」に参加する両政党の組織完全統合・単一政党化準備に向けてPDSは2005年7月に左翼党-民主社会党と改称していた。さらにその後、WASGのオスカー・ラフォンテーヌが左翼党-民主社会党に入党、逆に左翼党-民主社会党のグレゴール・ギジがWASGに入党し、お互いに二重党籍になるなど両党の融合を進めていった。こうして両党は統合のプロセスに約2年間をかけたが、その間には2006年9月のベルリン市(州と同格)議会選挙においてドイツ社会民主党のクラウス・ヴォーヴェライト市長政権へ左翼党-民主社会党が連立与党入りすることに反対するWASGのベルリン組織(トロツキストの「社会主義オルタナティブ」の影響が強かった)が独自に出馬し、分裂選挙となる一幕もあった(この選挙でWASGは議席を獲得できず、左翼党-民主社会党も大幅に得票を減らした)。 こうした紆余曲折を経たものの2007年6月17日に正式に両党は合併し、単一政党としての「左翼党」が発足した。そのなかで両党出身者のほか新左翼からも参加者があり、幅広い左翼の統一戦線政党としての性格が強まった。いっぽう両党の合併を最終的に決める党員投票においては、左翼党-民主社会党の側はほとんどの党員が賛成したのに対し、WASGからは辛うじて過半数を上回るにとどまるなど、両党のあいだには最後まで温度差もあった。 このように現在、同党は開かれた左翼政党であって旧来式の前衛党型組織論を有するマルクス・レーニン主義に基づく共産党からの変貌を遂げたが、党内にはなお旧来のスターリン主義に固執するグループ(共産主義プラットフォーム)も派閥として残存するとされ、同グループは連邦憲法擁護庁から監視対象とされている。 初代党首(共同党首)は、ロタール・ビスキー旧PDS党首とオスカー・ラフォンテーヌ元蔵相。2005年の連邦議会選挙後には、ビスキーが副議長候補に指名されたが、シュタージ(東ドイツ国家保安省)との関係が取りざたされて、本人は関係を否定したものの副議長就任を断念した。
用語
前身政党
WASG
左翼党-民主社会党
沿革
政党連合から正式合併へ
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