左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作と言われる彫り物は全国各地に100か所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。 逸話などでその存在さえも疑われているが[1]、実在の人物として記述している文献も見られる。 足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれた。ただし、紀伊国根来東坂本(岩出市)に生まれたとする説もある[2]。父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、将軍家大工頭・甲良宗広[注釈 1]の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。 江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者である老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命。その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)に高松藩の客文頭領となったが、慶安4年(1651年)頃に逝去。享年58[3][4]。 名工・左甚五郎のモデル、岸上一族
伝承と関連する逸話
姓の「左」の由来には諸説ある[2]。江戸時代、腕利きの大工の代表として「大和大工に飛騨匠」と称されており「飛騨の甚五郎」が訛ったものとする説がある[2]。別の一説によると左利きだったからという説がある[2]。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという。そのほか、16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったともいわれている。
実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺 (香芝市)鳳凰の欄間がある[5][6]。
左甚五郎の伝承を持つ作品眠り猫(日光東照宮)閼伽井屋の龍(園城寺)鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市) - 眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市) - 本殿 「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市) - 子宝・子育ての虎、つなぎの龍
聖福寺(埼玉県幸手市) - 勅使門(唐門)
泉福寺(埼玉県桶川市) - 正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) - 野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町) - 夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎) - 正門の竜
上野東照宮(東京都台東区) - 唐門 「昇り龍」、「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市) - 山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)- 本堂欄間
長国寺(長野県長野市)- 霊屋 破風の鶴
静岡浅間神社(静岡県静岡市)- 神馬
龍潭寺(静岡県浜松市)- 龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)- 徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市) - 山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子