工部大学校
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工部大学校の校舎、教員、生徒(1880年)"The Engineering (1877)"に紹介された工部大学校校舎配置図

工部大学校(こうぶだいがっこう)は、明治時代初期に工部省工学寮が創設した技術者養成機関で、日本初の工学教育機関[1][2]。今日の日本の工業技術の礎を築き、工業発展に多大な役割を果たした。現在の東京大学工学部の前身の一つである。

1873年(明治6年)開設の工学寮工学校を1877年(明治10年)に改称したもので、1886年(明治19年)に帝国大学に合併。校舎は、現在の千代田区霞が関三丁目、文部科学省および金融庁のある一帯(霞が関コモンゲート江戸時代日向内藤家上屋敷跡地)にあった。
歴史ヘンリー・ダイアー
当初の構想

旧暦明治4年8月14日(1871年9月29日)、工部省の10寮1司の一等寮として、技術者養成を目的とする工学寮が創設され、初代工学頭には工部少輔山尾庸三が就任。中心事業は実践的技術者養成のための工学校の開設・運営で、当初は小学校(スクール)と大学校(カレッジ)で構成される工学校が構想された。エドモンド・モレルがイギリスから教員を招聘し、山尾が測量司雇のイギリス人技術者に組積造の小学校校舎建設を進めさせ、明治5年(1872年)初秋に小学校を開校する予定だったが、モレルの急逝により頓挫。
マセソンへの相談

山尾は急遽、旧知のヒュー・マセソン (Hugh Matheson) に相談したところ教員選抜協力の快諾を得たことから、1872年8月になって岩倉使節団副使として渡英した工部大輔伊藤博文がマセソンに正式に協力依頼をした[3]
大学方式への転換

マセソンから、ランキンによる人選、ヘンリー・ダイアーを筆頭とした教師団の編成はすべて西洋の大学方式へ転換していた。グラスゴー大学教授のウィリアム・ランキン (William Rankine) を通してヘンリー・ダイアー (Henry Dyer) を都険(実質的な校長)とする教師団が推薦された。1860年代末、ランキン教授はウィリアム・トムソン (William Thomson) 教授とともにグラスゴー大学に工学部を新設しようと奔走し、ダイアーはランキン教授の下で技術者教育学を専攻していた。ランキン教授の計画は叶わなかったが、ダイアーは師の構想を日本で実現しようとした。

1873年岩倉使節団に同行していた林董スコットランドで教師団任用契約の手続を行い、日本までの船旅の同伴の任に当たった。ダイアーは小学校を別に開くのは止め、大学校を基礎課程、専門課程、実地課程(各2年)の3期6年制とし、土木機械、造家(建築)、電信化学冶金鉱山造船の6学科とする学則・シラバスを作成した。教授形式は、1871年にロンドン近郊に開学していた王立インド工学校 (Royal Indian Engineering College) と同様に、講義と実習を半年ずつ交互に行うサンドウィッチ方式とし、また、実地課程のために赤羽工作分局を併設させた[4]
開校

新暦1873年(明治6年)9月に生徒募集(15歳から20歳まで)が行われ、11月に開校。校舎の建設は間に合わず葵町の仮校舎で授業が始められた。当初、工学校校長は山尾が兼務したが、1877年(明治10年)の工学寮廃止とともに工学校は工作局付属となり、工作局長の大鳥圭介が校長に就任、さらに「工部大学校」に改名された。ダイアーを通して、引き続きイギリスから優秀な外国人教師が任用され、多くの授業英語で行われた。生徒のノート卒業論文も、英語で書かれたものが現存している(国立科学博物館新館2階などで見ることができる)[5]

生徒は原則として私費生(月額7円上納)であり、時宜により在学中の経費を支給する官費生を募集した。但し、官費生には卒業後7年間は工部省で働く奉職義務が課せられた(工部大学校学課並諸規則)。

1873年11月の入学生は仮校舎で授業を受けたが、翌年には最初の組積造校舎(小学館)が完成、1877年に本館が完成すると、世界で最も優れた工学教育施設と考えられた。


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