工藤氏
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工藤氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}庵木瓜(いおりもっこう)
本姓藤原南家為憲流[1]
家祖藤原為憲[1]
種別武家
支流、分家伊東氏(武家)
長野工藤氏(武家)
二階堂氏(武家)
鮫島氏(武家)
厨川氏(武家)
入江氏(武家)
天野氏(武家)
岡部氏 (藤原南家)(武家)
吉川氏(武家)
原氏(武家)
孕石氏(武家)
相良氏(武家)
中川氏(武家)
川井氏(武家)
分部氏(武家)
久須美氏(武家)
河津氏(武家)
宇佐美氏(武家)
伊豆南条氏(武家)
狩野氏(武家・画派
小出氏(武家)など
凡例 / Category:日本の氏族

工藤氏(くどうし)は、藤原南家の流れをくむ日本氏族のひとつ。
概要

仁寿8年(852年)、藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称したのが源流(『尊卑分脈[1])。為憲の孫は駿河守維景(これかげ)。

為憲の子孫は駿河国以外にも伊豆国狩野郷)、甲斐国などへ移り住んだ。為憲の子維職(これもと)は伊豆押領使となっている(『尊卑分脈』[1])。

駿河国の工藤氏から入江氏が出た。また工藤為憲の曾孫・入江馬允維清の孫、師清が原姓を自称して原氏となった。師清からは橋爪氏、原田氏久野氏孕石氏、小沢氏などが分かれ出た。

その後、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}駿河国に移住した駿河工藤に対して、東伊豆に移動した工藤氏の一派が「伊豆工藤」と称した[要出典]。この「伊豆工藤」は後の「伊藤」姓の由来といわれる[要出典]。また、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は奥州移住前は甲斐国に移住していたことが知られている[要出典]。

伊豆における工藤氏は平安時代から鎌倉時代にかけて勢力の伸張に従い鮫島氏、狩野氏伊東氏河津氏などそれぞれの地名を苗字とするようになった。中でも伊東氏南北朝時代日向国に移住し大きく栄えた。

また一族の工藤行政は、鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称し、その子孫は二階堂氏となった。また、奥州工藤氏や狩野氏のように得宗被官化してそれを足がかりを勢力を広げる者もあった。

奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。また、遠江国井伊氏もその後裔と称した[注釈 1]
家紋

工藤家の家紋は「庵木瓜(いおりもっこう)」である。庵とは簡素な家、仮住まいのような小さな家のことを指す。なぜ庵を家紋にしたのか未だに明らかにされていないが、理由の1つとして「家」を強く表示するためと言われている。その証しに、庵だけで紋を構成することは少なく、その家の本紋を組み込んでいる。木瓜紋の場合は木瓜の訓み「もっこう」が「木工」に通じることから「木工助」の有職名を表し、さらに庵の中に収めることでその意味を強調している。なお、工藤家の家紋の中には丸に木瓜という物もある。また、庵だけで紋を構成しているのは本家だけという説がある。
甲斐武田氏家臣の工藤氏

甲斐国守護戦国大名である武田氏家臣には工藤一族の名が見られる。工藤昌祐は守護・武田信縄側近として活動し、伊勢御師・幸福大夫へ宛て返書に副状を付している[3]。また、工藤祐久も武田信縄もしくはその子息である武田信虎の側近であると考えられており、同様に伊勢・幸福大夫に対する返書に副状を付している[4]
武田信虎家臣の工藤氏

戦国時代には甲斐守護・武田信昌の子息である信縄と油川信恵の間で内訌が発生し、信縄の死後は信虎・信恵間で抗争が発生した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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