翻訳家の「工藤政司」とは別人です。
工藤 政志基本情報
本名工藤 政志
階級ジュニアミドル級
国籍 日本
誕生日 (1951-08-24) 1951年8月24日(72歳)
出身地秋田県南秋田郡五城目町
スタイル右ボクサータイプ
プロボクシング戦績
総試合数24
勝ち23
KO勝ち12
敗け1
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工藤 政志(くどう まさし、1951年8月24日 - )は、日本のプロボクサー。身長178cm。1975年から1978年に日本ミドル級王者を8度防衛した後、1978年から1979年にかけてWBA世界ジュニアミドル級王者となり、3度の防衛に成功した。レスリング出身でインターハイ3位という成績を持ち、ミュンヘンオリンピックの代表から外れたためにプロボクシングに転向したという経歴を持つ[1]。 1951年、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。小学2年生の時に父を亡くした工藤は、新聞配達などで家計を助けた[1]。五城目町はレスリングが盛んで、工藤も進学先の秋田県立五城目高等学校ではレスリング部に所属、インターハイ65kg級3位入賞などの成績を残す[1]。高校卒業後もレスリングを続けるため自衛隊体育学校に入学するも、1972年にミュンヘンオリンピックの代表選考から漏れ、ボクシングへ転向する[1]。この転向には、同じ自衛隊体育学校で、ボクシングのミュンヘンオリンピックの代表となった小林和男(後のロイヤル小林)の影響があった[1]。転向後の全日本社会人ボクシング選手権大会で優勝した工藤は、翌1973年に熊谷ジムからプロデビューを果たした[1]。 1974年2月20日、全日本ミドル級新人王決定戦。西軍代表松下喜和に不戦勝で第20回全日本ミドル級新人王を獲得。同年7月29日、ノンタイトル10回戦でカシアス内藤に判定勝ち。 1975年3月2日、日本ミドル級王座獲得。以後8度防衛[1]。 1978年8月9日、秋田市立体育館でWBA世界ジュニアミドル級王座に挑戦。王者、エディ・ガソ(ニカラグア)を15回判定で降し王座に着いた。この試合までに日本人の世界王座挑戦は16戦連続で失敗しており、この連敗を止めたことが評価された工藤はこの年のライターズクラブ殊勲賞を受賞。さらに、前年まで世界ランク外であった工藤の勝利は高く評価され、リングマガジン誌においてリングマガジン プログレス・オブ・ザ・イヤーの第2位となった[1]。 1979年10月24日、秋田県立体育館で世界王座4度目の防衛戦。アユブ・カルレ(ウガンダ)に15回判定で敗れ王座陥落。現役引退[1]。オーソドックスなボクサータイプの選手で、華やかさや派手さは無かったが忍耐強いボクサーであった[1]。 引退後は妻の郷里である茨城県に移り、ボクシングジムを開設。後進の指導にあたった[1]。
来歴
プロデビュー以前
プロデビュー後
獲得タイトル
第28代日本ミドル級王者(8度防衛)
WBA世界ジュニアミドル級王者(3度防衛)
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k l 千葉雄『秋田のプロボクサー』(秋田魁新報社、2002年、ISBN 4870202174)
関連項目
男子ボクサー一覧
ボクシング日本王者一覧
世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧
外部リンク
⇒世界チャンピオン・アーカイヴス - 日本プロボクシング協会
工藤政志の戦績
前王者
エディ・ガソWBA世界スーパーウェルター級王者
1978年8月9日 - 1979年10月24日次王者
アユブ・カルレ
ミニマム級
井岡弘樹
大橋秀行
星野敬太郎
新井田豊
イーグル・デン・ジュンラパン
高山勝成
井岡一翔
八重樫東
宮崎亮
田中恒成
福原辰弥
京口紘人
山中竜也
谷口将隆
重岡銀次朗
重岡優大
ライトフライ級
具志堅用高
中島成雄