工藤公康
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工藤 公康日本一を決めた直後のセレモニー
(2017年11月4日 日本シリーズ第6戦 福岡 ヤフオク!ドーム
基本情報
国籍 日本
出身地愛知県名古屋市昭和区(現:天白区
(同県豊明市とする文献もある)
生年月日 (1963-05-05) 1963年5月5日(61歳)
身長
体重176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1981年 ドラフト6位
初出場1982年4月10日
最終出場2010年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


名古屋電気高等学校

西武ライオンズ (1982 - 1994)

福岡ダイエーホークス (1995 - 1999)

読売ジャイアンツ (2000 - 2006)

横浜ベイスターズ (2007 - 2009)

埼玉西武ライオンズ (2010)

監督歴


福岡ソフトバンクホークス (2015 - 2021)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2016年
得票率76.6%(337票中258票)
選出方法プレーヤー表彰
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工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県名古屋市昭和区(現:天白区[注 1]出身[1](同県豊明市出身とする文献もある。後述)の元プロ野球選手投手、左投左打)[2]野球解説者野球評論家

選手時代は14度のリーグ優勝、11度の日本一を経験[3]西武ライオンズ福岡ダイエーホークス読売ジャイアンツ(巨人)の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた[4][5]。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する[6]。また、最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。

現役引退後は、2012年 - 2014年の3年間にわたり野球解説者野球評論家として活動し、2015年から2021年まではダイエーの後身であるソフトバンクの監督(第21代)として指揮を執っていた[7][8]。監督としては2020年までにソフトバンクを3度のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)優勝[9]、5度の日本一(日本シリーズ優勝)に導いている[10]。監督退任後は再び野球解説者・野球評論家として活動している。

子供は5人おり[11]、長男は俳優工藤阿須加[12]、長女はプロゴルファー工藤遥加[13]
経歴
プロ入り前
出生

1963年5月5日愛知県名古屋市南区で生まれた[注 2][14]。出生当時は3人兄弟の三男で[15]、「公康」の名は父親から「公(ひろ)く庶民的であってほしい」との願いを込められて名付けられた[14]。父親[注 3]は公康が生まれた当時、故郷の九州から名古屋に出てきたばかりで、名古屋市交通局バス運転手として働いていたが[14]、2歳の時に妻(公康の実母)と離婚[15]。そして公康が6歳のころに後妻(公康の継母)と再婚し、妻の連れ子と、結婚後に2人の間に生まれた息子を加えた7人家族で暮らしていた[注 4][15]

出身小中学校は名古屋市天白区[注 5](当時は昭和区[注 1]市立高坂小学校市立久方中学校[注 6][18][22]、工藤の高校時代、家族は天白区高坂町の市営住宅「高坂荘」に住んでいたが[23]、工藤が西武に在籍していた1984年に同県豊明市二村台に引っ越している[注 7][1]。1987年11月の『週刊現代』によれば、豊明市にあった工藤の実家は4年前(1983年ごろ)に工藤本人が父とともに共同名義で購入した住宅だという[25]

ホームラン』(日本スポーツ出版社廣済堂出版)の選手名鑑によれば、工藤の出身地は1982年版 - 1984年版では「愛知県名古屋市天白区」とされていたが[26][27][28]、1985年版および2015年版・2020年版選手名鑑では「愛知県豊明市」とされている[29][30][2]
小中学校時代


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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