株式会社工画堂スタジオ
KOGADO STUDIO,Inc.種類株式会社
略称KGD
本社所在地 日本
〒160-0004
東京都新宿区四谷4丁目3
四谷トーセイビル4階
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分16.6秒 東経139度43分1.6秒 / 北緯35.687944度 東経139.717111度 / 35.687944; 139.717111
株式会社工画堂スタジオ(こうがどうスタジオ)は、デザインおよびソフトウェア開発を行う日本の企業。本社は東京都新宿区。略称は「KGD」。
書籍の装丁をはじめとするデザイン事業に加え、様々なジャンルのコンピュータゲームを制作してきたことで知られている。その一方、同社は過去に「天皇陛下からリカちゃんまで」というキャッチコピーを出していたことや、デザイン部門が教育やエディトリアルに携わっていることから、会社としてはアダルトゲームへの参入はしないという方針を立てている[1][2]。
社長の谷逸平は日本コンピュータゲーム協会(JCGA)事務局長であり[3]、社内には事務局が設置されている。コンピュータエンターテインメント協会(CESA)には加盟していない。
なお、歴代社長は苗字が同じであるため、本項では混乱防止の観点から、同姓の人物が複数出てきた場合は原則として名前で記す。 1916年、谷順三が『図案と版画 谷工画堂』として創業する[1][2]。順三は戦後すぐに亡くなり、次男の欣伍が2代目の社長となった[1]。順三の孫(欣伍の息子)で、4代目社長の逸平が電ファミニコゲーマーとインタビューで語ったところによると、創業当時はグラフィックデザイン(図案)に加え、製版も行っていたとされている[1]。また、当時は労働省やアメリカ国務省の国際協力本部といった政府組織や、ヒドリ自転車 1968年にタカラから女児向け商品であるリカちゃん人形関連の仕事を発注されたことがきっかけで、同商品のパッケージや広告類のデザインを手掛けるようになった[1]。社内で男児向け玩具の仕事を希望していた矢先、タカラがミルトンブラッドレー(現:ハズブロ)からボードゲーム類のライセンスを取得し、工画堂がローカライズを担当した[1]。そのうちの一つ『人生ゲーム』が大ヒットしたことから、後に3代目社長となる谷亮(順三の甥)がゲーム好きだったこともあり、『日本特急旅行ゲーム』をはじめとするタカラのボードゲームの制作を担うこととなった[1]。また、『人生ゲーム』もシリーズ化し、『平成版8』までを制作した[1]。この当時はゲームデザインという概念はなかったものの、当時の社員で興味を持った者や、社員の知り合い、そしてボードゲームを興味を持った者たちが集まったと逸平は話しており、アルバイトできたつもりが社員として雇用されたケースもあったという[1]。また、欣伍が同社の経営にかかわる一方で東京学芸大学で教員をしていたことから、その教え子たちはのちに幹部職や要職についている[1]。 1980年代に任天堂のゲーム&ウオッチのヒットにより、似た電子ゲームがバンダイやトミーからも発売されるようになると、工画堂スタジオも同様の仕事を請け負うようになる[1]。同時期、『ウィザードリィ』をはじめとするAppleのApple II用のゲームソフトが日本にも出回るようになり、元々新しい物好きだった亮はパソコンゲームの開発に興味をもち、1982年に、亮は鬼羅あきらという筆名のもと、プログラマーの永井知彦とともにソフトウェア開発部を発足させる[1]。彼らはSHARP MZ-80やNEC PC-8001/8801等のコンピューターを購入し、コンピュータゲームの研究開発も行うようになった[1]。逸平は電ファミニコゲーマーとインタビューの中で、亮も永井もすでに死亡しているため、永井が工画堂スタジオに在籍している理由がわからないとしつつも、永井が東京学芸大学の授業で『Emmy』の原型となる作品を作っていたことについて触れ、欣伍に永井を紹介してもらい、同社でこの作品を肉付けしたうえでアスキーに持ち込んだと推測している[1]。ところが、アスキーが作り直したものは、作り手にとって不本意な内容だったようで、のちに工画堂スタジオは『Emmy II』を自社開発している[1]。 1983年には工画堂スタジオの最初のPCゲームとして、脱衣スロットゲーム『スロットクレイジー』がタカラから発売されたものの、しばらくはアスキーのOEM開発が続いた[1]。そして、1985年8月には工画堂スタジオ自社ブラン「KGDソフト」の第一作目の作品として「コズミックソルジャー」が発売された[4]。 その後、ゲームのヒットにより人手不足という課題が浮かび上がり、亮が一人で広報を行うこともあった[1]。『覇邪の封印』(1986年発売)が大ヒットしたころ、亮はグラフィックデザイナーとして在籍していた逸平を開発部門に引き入れる[1]。逸平はプログラミングができないため、亮はそれ以外、すなわち印刷物の制作、発注、進行管理、在庫管理や棚卸、広報を任せた[1]。 逸平はもともと話し好きだったこともあり、営業の主軸の人間としてゲームにかかわってきたとインタビューの中で話している[1]。また、パソコンゲームが出始めたころは、開発チームにグラフィックを得意とする者がいなかったり、身内にグラフィックを担当させるようなケースが多かったから、セールストークではグラフィックをアピールしたと振り返っている[1]。 それから、『コズミックソルジャー』の続編である『サイキックウォー』のヒットにより、2ラインの制作体制が導入された。2ライン制導入後、『シュヴァルツシルト』と『原宿AFTeR DARK』の開発が始まったが、『シュヴァルツシルト』の開発が難航したことから、穴埋めとして『アルギースの翼』の開発が始まった[1]。
歴史
玩具業界への参入
ビデオゲーム業界への参入