巣伏の戦い
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巣伏の戦い
戦争:延暦八年の征夷
(桓武朝第一次征討)
年月日:延暦8年5月下旬から末頃の某日(推定)
場所: 日本 陸奥国衣川から水沢間の北上川河東(現岩手県奥州市
結果:朝廷軍の敗北
交戦勢力
朝廷胆沢蝦夷
指導者・指揮官
多賀城もしくは玉造塞
紀古佐美

前軍・中軍・後軍
入間広成
池田真枚
安倍?嶋墨縄不明
戦力
前軍2,000人(推定)
中軍2,000人
後軍2,000人1,400?1,500人(推定)
損害
戦死25人
矢傷245人
溺死1,036人
裸身生還1,257人人的損害不明
焼亡14村800戸
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巣伏の戦い(すぶしのたたかい、すぶせのたたかい)は、奈良時代末期の延暦8年(ユリウス暦789年5月下旬から末頃の某日に、古代日本律令国家朝廷)と、胆沢蝦夷(えみし)の間で行われた戦闘。三十八年騒乱のうち延暦八年の征夷の一つ。目次

1 背景

1.1 征夷の開始

1.2 衣川営での逗留

1.3 桓武天皇の叱責

1.4 佐伯葛城の死


2 経過

2.1 開戦時期

2.2 開戦

2.3 朝廷軍の敗北


3 戦後

3.1 胆沢の蝦夷の損害

3.2 征夷中止の上奏


4 関連資料

5 脚注

5.1 原典

5.2 注釈

5.3 出典


6 参考文献

7 関連項目

背景

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。
征夷の開始

延暦7年12月7日(789年1月7日)、長岡京の内裏で桓武天皇から節刀を授けられた征東大将軍・紀古佐美が激励を受けて陸奥へ進発した[1][2]

年が明けて延暦8年3月9日(789年4月8日)、多賀城に会集していた朝廷軍が「河道」「陸道」「海道」といったいくつかの道に分かれて進軍を開始した[3]
衣川営での逗留

延暦8年3月28日(789年4月22日)、「陸道」を進軍していた2?3万人ほどの軍勢が衣川を渡河して、その北岸に3ヵ所の軍営(衣川営)を置いた[3]

同軍の指揮を担当したのは副使・入間広成で、鎮守副将軍・池田真枚と同・安倍?嶋墨縄が作戦の策定にあたった[3]。広成らは衣川を渡って北岸に軍営を築いた旨を、後方の玉造塞より全軍の総指揮を執っていた古佐美の許に報じている[原 1][3][3]

古佐美が延暦8年4月6日(789年5月5日)付で都へ送った奏状の文章の一部が『続日本紀』延暦8年6月3日(789年6月30日)条と延暦8年6月9日(789年7月6日)条に引用されており、朝廷軍は胆沢の地の北上川東岸に集結した蝦夷軍を征し、その後で一挙に盆地奥部まで攻める計画をしていた[3]。しかし衣川北岸に軍営を築いたあと、朝廷軍はその場で逗留し、しばらく動く気配がなかった[3]
桓武天皇の叱責

古佐美から延暦8年4月6日(789年5月5日)付の奏状が届けられて以降、30日ほど経過しても征東使から朝廷への戦況報告がなくしびれを切らした桓武天皇は、延暦8年5月12日(789年6月9日)に征東使へと勅を下し、長期間に渡る逗留の理由と賊軍側の消息についての報告を命じ、直ちに出撃すべきことを強く促した[原 1][3]
佐伯葛城の死

古佐美が延暦8年4月6日(789年5月5日)付の奏状を送ってから、前述の桓武天皇の勅が届いたと思われる延暦8年5月19日(789年6月16日)頃までの間に、『続日本紀』延暦8年5月26日(789年6月23日)条から征東副使・佐伯葛城が死亡していたことがわかっている[原 2][4]

陸奥の朝廷軍本営と長岡京との駅使による通信には片道7日程度を要していたことから、延暦8年5月26日(789年6月23日)が朝廷に葛城の死についての報告が届けられた日であると仮定すれば、古佐美が葛城の死を報じる奏状を送ったのは延暦8年5月19日(789年6月16日)頃となる[4]。そのため葛城の死は延暦8年4月6日(789年5月5日)付の奏状を送ってから延暦8年5月19日(789年6月16日)頃までの間のことであったとみられる[4]
経過

以下は『続日本紀』などを基にした巷間で知られる合戦の経過である。
開戦時期

巣伏の戦いの戦況について、紀古佐美が朝廷に報じた奏状の部分と、それを受けて下された桓武天皇の勅の部分が『続日本紀』延暦8年6月3日(789年6月30日)条に記されている[5]。延暦8年6月3日(789年6月30日)は桓武天皇の勅が発せられた時点であると考えられ、古佐美が奏状を送ったのは7日ほど遡るとみられることから、実際に巣伏の戦いが起こったのは5月下旬から末頃と思われる[原 3][5]

おそらくは延暦8年5月19日(789年6月16日)頃に桓武天皇が発した延暦8年5月12日(789年6月9日)付の勅が朝廷軍本営に届けられ、これを受けた古佐美は衣川営で逗留していた朝廷軍に対して直ちに進軍するよう命じたものと思われる[5]。また出撃開始と佐伯葛城の死亡を併せて報告する奏状を朝廷に宛てて送ったものと推測される[5]
開戦

朝廷軍の作戦は征東副使・入間広成と鎮守副将軍・池田真枚(左中軍別将)、同・安倍?嶋墨縄(前軍別将)の3人によって急遽策定され、前軍・中軍・後軍の3軍が相連携した渡河作戦で胆沢の地を攻めるというものであった[6][5]。おそらく「胆沢の賊、惣て河東に集る」という情報を得ていたことから渡河作戦を採用したと思われる[6]


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