巡察使_(古代日本)
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この項目では、律令制下の日本で設けられた官職について説明しています。それ以外の用法については「巡察使 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

巡察使(じゅんさつし)とは、日本の律令制において、地方官監察のために置かれた官職である。太政官に所属した。
概要

職員令』の太政官の条の最後には、巡察使のことが挙げられており、それによると、職掌として「諸国を巡察すること」とあり、すなわち巡察使は太政官に所属するけれども、常置ではなく、発遣のあたっては広く内外の官人から清廉(清正灼然、しょうじょうじゃくねん)のものを選んで任じ、巡察すべき事柄や使節の構成はその時に応じて決める(臨時量定) ことになっていた[1]。これは唐の巡察使の制度を模したものであり、一般に畿内七道の別に派遣され、国司・郡司の治績や、百姓の消息を巡察し、人民の窮乏を調査する任務を帯びていた。その職掌には按察使惣管鎮撫使観察使と重複するところもあった。

以下、その注目すべきものについて、列挙する。
初期(第1回から第4回まで)

「巡察」の史料上の初見は『日本書紀』巻第二十九であり、それによると、天武天皇14年(685年)9月に、国司・郡司と百姓の消息(様子)を巡察する使者がそれぞれ、判官1人、1人を部下として、全国(東海道東山道山陽道山陰道南海道筑紫)に派遣されたとある[2]

「巡察使」として現れるのは、飛鳥浄御原令施行後の持統天皇8年(694年)7月のことで、秋七月(ふみづき)の癸未(みづのとひつじ)の朔丙戌(ひのえいぬのひ)に巡察使(めぐりみるつかひ)を諸国(もろもろのくに)に遣(つかは)す[3]

である。

続日本紀』巻第一、文武天皇2年(698年)3月には「巡察使を畿内に遣(つかわ)して、非違を検(かんが)へ察(み)しむ」とあり、三度目の巡察使が派遣されている[4]

『続紀』巻第三によると、大宝3年(703年)正月、藤原房前を東海道に、多治比三宅麻呂を東山道に、高向大足北陸道に、波多余射を山陰道に、穂積老を山陽道に、小野馬養を南海道に、大伴大沼田を西海道に派遣した、とある。この時は道ごとに録事を一人派遣し、その任務は「(国司の)政績を巡り省(み)て、冤枉(=冤罪)を申し理(ことわ)らしむ」となっている[5]
巡察使の毎年派遣以降

『続紀』巻第五には、元明天皇和銅5年(712年)5月の詔により、毎年派遣になり、国内の損失や貧富の差を調べさせるものとなった、とある[6]

『続紀』巻第六、元明天皇の和銅8年(715年)5月には、以下のような勅令が出された。「天下の百姓が本貫(本籍地)を離れ、他郷に流浪して、課役を忌避している。浮浪して逗留期間が3ヶ月になるものは土断し、その土地の法にあわせて調庸を輪納させよ。また百姓をいつくしんで導き、農業や桑(蚕業)を勧めて、民をいつくしむ心を持ち、飢寒を救うのは国司や郡司の善政である。一方で公職にありながら、私腹を肥やす心を持ち、農業を妨げ、万民を侵?(しんぼう)する(=むしばむ)ようなことがあったら、国家の害虫のようなものである。そこで、(国司・郡司で)産業を督励し、資産を豊かにするものを「上等」とし、督励を加えたけれども衣食の乏しいものを「中等」とし、田畑が荒廃し、百姓が飢寒して死亡させてしまったものを「下等」とする。死亡者十人以上ならば任を解け。また四民(士農工商)の徒には、おのおのその生業がある。今その人たちが職を失って流散するのは、国司や郡司が教え導く適切な手段をとかないからで、はなはだ不適当である。このようなものがあったら、顕戮(けんりく)を加えよ(=厳罰に処して、人々への見せしめにせよ)」今より以後去(のち)巡察使を遣して、天下(あめのした)に分け行きて風俗(くにぶり)を観省(み)しめ、敦徳(とんとく)の政(まつりごと)を勤めて彼(か)の周(あまね)く行はるることを庶(こひねが)ふべし。今より始めて、諸国(くにぐに)の百姓、往来(いきき)の過所(くゎしょ)(=通行許可書)に当国(そのくに)の印(おして)を用ゐよ(これからは巡察使を派遣し、天下を手分けして廻らせ、人民の生活ぶりを観察させる。あつい仁徳の政治を行うようにつとめ、詩経の言葉にある周行の実現をこいねがうようにせよ)訳:宇治谷孟[7]

続けて同月に発令された勅令には、国司の怠慢による調・庸の納期遅れの輸送及び、庸の船舶を用いての運送により事故や浸水で損失することを責めた上で、また五兵(ごひゃう)(弓矢、矛、戈、戟など5種類の武器)の用は古(いにしへ)より尚(ひさ)し。強きを服(まつら)へ柔(よわ)きを懐(なつ)くること、威(ことごと)く武徳に因る。今、六道の諸国、器仗(きぢゃう)(=武器)を営造(ゐやうざう)すること、甚だ牢固(かた)からず(しっかりしていない)。事に臨みて何ぞ用ゐむ。今より以後、毎年(としごと)に様(ためし)(=見本)を貢し、巡察使の出づる日、細(つぶさ)に校勘(かうけむ)を為せ(また、五兵の使用は古くから久しく行われている。強敵を服従させ、従順な者を手なずけるのも、みな武徳によっている。ところが今六道の諸国において営造する武器は、十分しっかりしたものではない。いざというとき、どうして役に立とうか。今後は毎年、製造した武器の見本を提出させ、巡察使が出向いた時、詳しく見本とひきくらべて調べよ)訳:宇治谷孟[8]

ここで、「六道」となってるのは、七道のうち、大宰府管内である西海道を省いているからである。『軍防令』によると、在庫の役に立たない器仗は調査の上、除去し、従軍中に戦闘そのほかで破損したものは、官および個人の費用で修理することになっており、また国郡の器仗は、毎年、帳に記録して、朝集使に預けて、兵部省に申告し、そこで審査検討し終わったならば、2月30日以前までに記録して進奏する、となっていた[9]。諸国が毎年製造すべき年料器仗については、兵部省の式にその種目と数、主税寮式上にそれらを造る料について定めており、この条の規定によると、諸国から毎年その見本を貢上することを定めている。

『続紀』巻第十には、神亀4年の2月に雷雨と強風があり[10]、僧600人、尼200人を中宮に招請して、金剛般若経を転読させた[11]。それでも安心できなかった聖武天皇は、詔を出して文武の百寮の主典以上を召し入れられ、左大臣長屋王が勅令を述べて、次のように言った。「このところ、咎徴(きゅうちょう)(=天の咎めのしるし)があり、災いがしきりとやまない。時の政治が道理に背き、民の心が愁い怨むようになると、天地がこれをせめて、鬼神が以上を表すと聞いている。朕が民に徳を施し切れておらず、怠り、かけているところがあるのだろうか。それとも百寮の官人が奉公に勤めないためであろうか。朕は身を九重を隔てており、多くは詳かに詳しくは知らない。諸司の長官に命じて、主典以上の心を公務にくだき清く勤めるものと、心にいつわりを抱いて、職務を全うしないものと二種類選び、その名を記して奏上し、それぞれ昇進と下降を行う。各長官は隠し事をせず、朕の意に従うように」

この日、使いを七道の諸国に派遣して、国司の治政状況と勤務について調査させた[12]

国司の査定については、『考課令』50条に、「1最以上4善あれば、上上とし、1最以上3善あるもの、或いは最がなく4善あるならば、上中、1最以上2善あるもの、或いは最がなく3善あるならば、上下とし、1最以上1善あるもの、或いは最がなく2善あるならば、中上とし、1最以上であるもの、或いは最がなく1善あるならば、中中とすること。職事があらかたおさまっており、善や最が聞こえてこなければ中下とすること。愛憎に情を任せ、処断が理に背いていたならば、下上とすること。公に背いて私に向かい、職務に廃れや欠けがあるならば、下中とすること。官にあって詐り騙し、また、貪濁の状があるならば、下々とすること。もし善最以外に、特に褒めるべきことがある場合、及び、罪が殿に付けられる(除免官当には至らないが記録される)ことになったとしても情状酌量の余地があるもの、或いは、殿に付けられることにはならなかったとしても情状を責めるべきものは、省校(諸司の考文を式部・兵部省で勘校校定すること)の日に、みな臨時に量定するのを許可すること」とある。

『続紀』巻第十三によると、天平10年(738年)10月巡察使を七道の諸国に遣して、国宰(くにのみこともち)の政迹(せいせき)、黎民(おほみたから)の労逸(らういつ)を採り訪(とぶら)はしむ。(巡察使を七道の諸国に派遣し、国司の政治の成果と、人民の暮らしの苦楽について調べさせた。訳:[宇治谷孟[13]

とあり、翌天平11年(739年)2月には、光明皇太后の体調不良による大赦[14]に加えて、若し百姓(はくせい)心に私愁(ししう)を懐(いだ)きて披陳(ひちん)せまく欲せば、恣(ほしきまにま)に聴(ゆる)せ。巡察使事に随ひて問ひ知り、状を具(つぶさ)にして録(しる)し、奏すべし。赦(しゃ)の書(ふみ)に依りて告げたる人を罪(つみな)ふこと勿(なか)れ。(もし人民で心に私的な愁いを抱いて、巡察使に心中を申し述べたいと欲する者があったら、希望に任せてその訴えを聞け。巡察使はその事柄に従ってよく聞きただし、内容を詳しく記録して奏上せよ。赦免の詔書に決められたことだからと言って、訴え出た者を処罰しないようにせよ)訳:宇治谷孟

とある。同年6月に出雲石川年足が善政を表彰され、?30匹、布60端、正税3万束を与えられているのは[15]、この巡察使の調査の結果であると推定される。

『続紀』巻第十四には、天平14年(742年)9月17日に七道の諸国に巡察使を派遣した、とある。同時に左京・右京と畿内の班田使を任命した、ともあり[16]、これは諸国班田の奨励・土地状況の視察にあたったものを推定され、翌年5月の墾田永年私財法の発令[17]とも関わりがあるものと思われる[18]


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