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を参考に作成したばかりですが、誤植などがある可能性もあり、内容はまだまだ不十分です。ドイツ語版を参考に加筆などをして頂けると助かります。(2020年1月)この項目では、連合軍軍政期のドイツ東部を占領したソビエト連邦(在独軍政府)が設置し、1952年までドイツ民主共和国(東ドイツ)の地方行政区画として機能していた州(ドイツ語: Lander)について説明する。 第二次世界大戦で敗北したドイツ国(ナチス・ドイツ)は連合国の軍政下に置かれ、ベルリン宣言によって、既存のドイツ中央政府および地方政府の権限は停止された。 これを受けて、ドイツ東部を占領したソビエト連邦軍によって設置された在独ソ連軍政府は1945年7月、連合国軍の分割占領下にあったベルリンを除く各地区に独自の地方政府を置き、1949年のドイツ民主共和国成立によって、連邦制を採用した東ドイツの州(Lander)となった。 しかし、東ドイツを実質的に支配していたドイツ社会主義統一党は中央集権的な単一国家の建設を志向していたため、1952年7月25日にドイツ民主共和国憲法が改正されて州は解体され、14の県 (Bezirke)と東ベルリンとに再編された[1]。 州の解体によって、各州の州議会は県議会(Rate der Bezirke)
概要
1990年3月に同国初の自由選挙が実施されてドイツ再統一を主張する保守連合「ドイツ連合(ドイツ語版、英語版)」が勝利すると、1990年7月23日に県を統合した上で境界を調整して新たに5州(新連邦州)が設置された。人民議会は8月23日に新連邦州が西ドイツ基本法第23条に基づいて10月3日にドイツ連邦共和国に加盟すると決議したことでドイツ再統一が達成され、新連邦州は再統一されたドイツ連邦共和国を構成する連邦州となった[4]。
1945年から1952年までの州ソビエト占領地域(赤枠内)に存在したドイツ国の州(1945年)ヴァイマル共和政におけるドイツ国の州(1925年)
1945年7月9日、在独ソ連軍政府はテューリンゲン州、メクレンブルク州、ザクセン州とプロイセン自由州内にあったザクセン県(ドイツ語版、英語版)とブランデンブルク県(ドイツ語版)に独自の地方政府を設置した[5]。このうち、ザクセン県とマルク・ブランデンブルク県は1947年2月25日の連合国管理委員会法第46号(ドイツ語版)によるプロイセン自由州の解体(英語版)や、ソビエト占領地域に存在したアンハルト自由州やブラウンシュヴァイク自由州の一部地域などとの統合によって、ザクセン=アンハルト州とブランデンブルク州に昇格した。
一方、連合国軍の分割占領下にあった東ベルリンは国際法上、ソビエト占領地域の一部とみなされていたため、5つの州のいずれにも属さない独立した地域とされた[6]。
1952年まで存在したのは次の5つの州である。
州名州都面積州旗紋章州憲法備考
メクレンブルク州シュヴェリーン23.402 km21947年憲法(ドイツ語版)[7]1945年から1947年までの名称は「メクレンブルク=フォアポンメルン州」[8]
ブランデンブルク州ポツダム27.612 km21947年憲法(ドイツ語版)[9]1945年から1947年までの名称は「マルク・ブランデンブルク県」および「マルク・ブランデンブルク州」[10]
ザクセン=アンハルト州ハレ24.576 km21947年憲法(ドイツ語版)[11]1945年から1947年までの名称は「ザクセン県」および「ザクセン=アンハルト州」[10]
ザクセン州ドレスデン17.004 km21947年憲法(ドイツ語版)[12]
テューリンゲン州ヴァイマル(1945年 - 1950年)
エアフルト(1950年 - 1952年)15.585 km21946年憲法(ドイツ語版)[13]
地方政府の発足に合わせて、「諮問会議」と呼ばれる予備議会が任命され、州議会選挙(ドイツ語版)後の最初の州議会の会議まで、ソビエト軍政府から任命された政権を監督した。ドイツ社会主義統一党以外の政党がかなりの不利益を被ったにもかかわらず、この合理的な自由選挙で望ましい絶対多数を達成できなかった後、ザクセン=アンハルトではキリスト教民主同盟とドイツ自由民主党を加えた政府さえ形成された。後に選挙制度はドイツ社会主義統一党が有利になるように変更され、すべての政党が合同して選挙連合「国民戦線(ドイツ語版)」を結成した上で行い、候補者リストもあらかじめ体制側が決めた議席配分に基づくものに置き換えられた。