州兵
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「州軍」はこの項目へ転送されています。同じく「州軍」と訳されることがあるアメリカ合衆国の州軍事組織については「州防衛軍」をご覧ください。
州兵のエンブレム

州兵(しゅうへい、英語: National Guard、州軍とも)は、アメリカ合衆国における軍事組織[要曖昧さ回避]の1つであり、通常時に知事の指揮下で治安維持(暴動鎮圧)や災害救援などにあたる郷土防衛隊としての側面と、戦時体制において大統領連邦政府の指揮下に入る、連邦軍予備役部隊としての側面を兼ね備えている[1]
名称の由来1825年7月14日・ニューヨーク市にてフランスへの帰路でニューヨーク州National Guardの閲兵式に臨む(ないし栄誉礼を受ける)ラファイエット

「National Guard」という名称は、アメリカ独立革命アメリカ独立戦争)で活躍したラファイエットが、フランス帰国後のフランス革命に際して自ら創設・指揮した「国民衛兵」(フランス語: Garde nationale、英語: National Guard)に由来する。両革命での活躍によって「両大陸の英雄」と呼ばれた彼が再びアメリカを訪れた1824年、ニューヨーク州の民兵隊は、彼に敬意を表して自ら「National Guard」と改称した。その後、南北戦争に際して同州が正式に「National Guard」を民兵隊の名称として承認したのを皮切りに他の諸州でも追随して民兵隊を「National Guard」と改称して全米に広まった結果、連邦議会が1916年の立法(1916年国防法(英語版))で正式な名称として認めたものである[2][3][4]

ただしこのような来歴はあるものの、日本語圏における訳語としては、語源である「国民衛兵」や、英名を直訳した「国家警備隊」ではなく、アメリカでの歴史的経緯を踏まえた「州兵」という訳語が定着している[5]
歴史
民兵思想の伝統

現代の州兵は、アメリカ合衆国の植民地時代に各地で組織された民兵(Militia)を起源とする。これは基本的に入植民による自警団であったが、独立戦争大陸軍とともに重要な戦力を担い、また、独立後も国内外の紛争・事案に動員されたことから、順次、連邦による統制の強化が図られていった[1]

元来、アングロ・サクソン系諸国で一般的なコモン・ローでは、「全ての市民は、治安維持の任務に従事する基本的責任を有する」という伝統的思想がある[6]イングランド王国では、1181年武装条例に基づいて全ての自由人男子は生業に応じて適切な武装を保持することが義務づけられており、この武装集団(jurata ad arma)は、後に軍事機能を担う民兵(Militia)(英語版)と治安維持機能を担う民警団(Posse comitatus)(英語版)へと分化していった[7]。この民警団は、シャイアカウンティなど地域を治める役人[注 1]の指揮のもとで集団警備力としての任に当たっており[8]、この伝統を踏まえて、「全ての健康な市民は、共同防衛のため、いかなるときにも武器をとって戦える状態にあるべき義務と責任を有する」という思想が生じた[5]
植民地民兵隊と独立戦争マサチューセッツ植民地の民兵隊

アメリカ合衆国の植民地時代の1636年12月、マサチューセッツ湾直轄植民地において入植者たちによる民兵隊 (Massachusetts Bay Colonial Militia) が設置された[9]。入植者による民兵組織そのものは、既にバージニア植民地において設置されていたものの、バージニアのものは古典的なイングランドの民兵組織の形態を踏襲していたのに対し、アメリカ先住民との紛争が多発するニューイングランドに位置するマサチューセッツ植民地においては、当時のヨーロッパで進んでいた軍制改革を参考にして歩兵連隊の制度を取り入れるなど、銃砲による戦闘を効果的に行えるよう改良を施していた[10]

同年から1754年にかけて東部の入植地の大部分に同様の組織が設置されており[11]、現在ではマサチューセッツ州民兵連隊が創設された1636年12月13日がアメリカ陸軍州兵の起源とされる[12]。植民地民兵隊は単なる軍事組織に留まらず、住民自治・学校教育・キリスト教会に並ぶ共和主義の支柱とも評されており、その訓練日には定住地から多くの人が集まることもあって、祝祭、更には政治を話し合う集会としての性格も帯びていた[13]。植民地政府が住民の意に反する政策を採っている場合、ベイコンの反乱に見られるように、住民が民兵隊の多衆の威力によって反抗することもあった[14]

このような暴力による反抗の矛先が植民地政府ではなくイギリス本国に向かったのが、1773年ボストン茶会事件であった[15]。以後、イギリス当局は反英主義の愛国派への取り締まりを強化したが、1775年4月には愛国派指導者の逮捕と民兵隊の武装解除を試みたイギリス軍に対しミニットマンなど現地の民兵隊が反撃して、レキシントン・コンコードの戦いが発生した[15]。植民地住民の中にはイギリスの統治を容認する忠誠派も少なくなかったが、愛国派は忠誠派が民兵隊の指揮を執ることを良しとせず、植民地住民同士の争いも発生した[15]

このような状況では、政府の命令というだけでは民兵隊の隊員は従わず、将校が旗幟を鮮明にして兵員に説明して同意を得る必要があり、民兵隊は直接民主制の場にもなっていった[15]。ただしイギリスとの和解を願う植民地住民もイギリス当局が植民地社会を蹂躙することは容認できず、1775年5月に開幕した第2次大陸会議では、13植民地の連合軍として大陸軍が結成された[16]。以後、ジョージ・ワシントン司令官の求めに応じて多くの民兵隊が参集し[5]、8年に渡る独立戦争で約16万人にものぼる民兵隊が動員されて主要な戦闘を戦い抜いた[11]
合衆国草創期と1792年民兵法


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